(10)エフェソへの手紙:「命の木の実」とスミルナへの手紙:「命の冠」
(エフェソへの手紙:「命の木の実」)
7つの支部の中で、エフェソは最大の都市である。紀元前7世紀末、この街の詩人カッリノスは、昔、エフェソがアマゾン族(アマゾネス)に陥落させられたと記しているが、アマゾネスが男を食らう女部族かどうかはわからない。「世界の7不思議」の一つに数えられる「アルテミス神殿」はこの街にあり、その神殿の前でパウロがエフェソの銀細工師と騒ぎを起こしている。
「あのパウロは「手で造ったものなどは神ではない」と言って、エフェソばかりではなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまう恐れがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」(新約聖書「使徒言行録」第19章26~27節)
注目すべきは、ヨハネが手紙で、エフェソの信徒を励ます言葉として、カッバーラを意味する「生命の樹」を用いている点である。
「耳ある者は、霊が緒教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第2章7節)
このとこは、カッバーラの基本(生命の樹)がエフェソの信徒にも与えられていたことを意味する。当時はまだ、聖書は編纂されていなかったし、グーテンベルグも生まれていなかった。そんな時代だからこそ、言葉や書簡は非常に重要だった。ただし、カッバーラは口頭で伝えるべきものとされており、それに12使徒が深く関与していた。そしてエフェソを初めとする7つの支部の信徒たちには、カッバーラの知識が与えられていた。だから彼らはその鍵を使って、黙示録の内容を迷うことなく解読できたのである。
(スミルナへの手紙:「命の冠」)
エフェソの北にあったスミルナは、現在のトルコのイズミルにある。古代の記録に「アジアの宝石」とあるほど美しいこの港湾都市は、かってアマゾネスがいたと伝えられている。仮に伝承が事実であれば、アマゾネスの軍はここからエフェソを陥落させたことになる。
紀元前8世紀、古代ギリシャの伝説的詩人ホメロスが生活していたとされるスミルナには、ローマ神話の女神パラス・アテナを奉る神殿もあり、ローマ皇帝を拝する都市になっていた。ローマの圧政下でキリスト教信仰を貫くことは、拷問と死を意味していた。それだけに黙示録が語る未来は、信徒たちにとって救いであり、大きな支えとなった。
紀元155年、ヨハネの愛弟子のポリュカルポスが、86歳で火刑で殉教したのもスミルナで、この地の信徒に宛てた手紙には、生命の樹の変名である「命の冠」という言葉が使われていた。
「死に至るまで忠実であれ、そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第2章10節)
冠は天の父エロヒム(私はエル・ランティーと思っている)の後継者に認められる象徴でもあり、生命の樹の根幹をなす重要な意味を持つ。つまり、命の冠とはカッバーラにおける至高の三角形の「ケテル」のことで、中央の柱の真上に輝く王冠を表している。このことはカッバーラを知らなければ理解できない。
一方、「死の樹」と呼ばれる樹も存在した。滅びに至る知識の樹のことである。旧約聖書は、その樹には蛇(サタン)が潜むと述べている。
「また、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(旧約聖書「創世記」第2章9節)
「主なる神は人に命じて言われた。「園の全ての樹からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(旧約聖書「創世記」第2章16~17節)
知識の樹(死の樹)に巻き付いたサタンは、嘘の知識でエバを騙した。主のこの言葉は、浅はかな知識は逆に自らを滅ぼすということを教えているのだ。そして、カッバーラの死の樹は、生命の樹図の真下に生える上下逆転の樹として表される。サタンが天界でルシフェルと呼ばれていた頃、彼は最高位の熾天使だった。図に乗ったルシフェルは、神に反旗を翻し、その結果、至高の三角形から真っ逆さまに落ち、そのまま死の樹の至高世界(最下層)にまで至ってしまった。そこで地の底の王となったサタンは、逆ケテルの冠を与えられたのである。それが王冠を望んだサタンの末路だった。
「イエスは言われた。「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」(新約聖書「ルカによる福音書」第10章18節)
日本ではサタンは須佐之男命に該当する。カッバーラ的に言えば、須佐之男命は、天照大神を騙して高天原で傍若無人に暴れまくり、天照大神を死に至らしめた。天照大神が岩戸から復活した結果、須佐之男命は八百万の神々により高天原から下界に落とされ、根の国(黄泉)の王になってしまう。
カッバーラという鍵を使えば、「記紀」は聖書であることが一目瞭然だ。これは日本人にヘブライの血が流れている証拠となる。民族の源流を覆い隠すカモフラージュとしても、カッバーラは用いられていたのだ。