(9)「メノラー」とは何か?
「純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出しつくりとし、台座と支柱、萼(がく)と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける・・・・(中略)・・・燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になって出ている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作る。」(旧約聖書「出エジプト記」第25章31~35節)
7枝のメノラーは、暗闇に光を与える存在であることを示すとともに、生命の樹を具現化した神具だった。黄金のメノラーの3連の台座は、3つの位階(ヒエラルキー)、7枝の先の花弁はセフィロトを示している。
メノラーの枝先の花弁は、向かって左から順に、ホド、ゲプラー、ビナー、コクマー、ケセド、ネツァク、主柱下の花弁上から順に、ダウト、ティファレト、イエソド、マルクトとなっている。つまり、主柱と左右一対の花弁が、ケテル、コクマー、ビナーの「至高の三角形」を表し、ダウトが至高世界を根源で支えるという構造になっている。
さらに、その両側と根本の花弁で、ケセド、ゲプラー、ティファレトの倫理的三角形を作り、一番外の両花弁と付け根の花弁で、ネツァク、ホド、イエソドのアストラル三角形を形成する。そして主柱の最も下の花弁はマルクトを示す。
このように、メノラーは別の姿をした生命の樹であり、原始キリスト教会の7つの支部は、ローマ帝国の圧制の闇夜を照らすイエス・キリストの光の燭台を表している。また7枝は、カッバーラの聖数「7」を示すゲマトリア(数秘術)で、創世記に由来する。
「第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された。」(旧約聖書」「創世記」第2章2~3節)
黙示録には冒頭から、カッバーラが駆使されており、7はカッバーラの創造の最後を飾る聖数である。「7つの教会の天使たち」とは、支部を導く指導者を表す聖書的な表現だと述べたが、黙示録とカッバーラの関係を知らないと、支部を宗教における灯台的存在としてしか解釈できない。
当時の原始キリスト教にはユダヤ教のシナゴーグのような建物はなく、信徒の家が集合所を兼ねていた。だから支部と言っても現在の教会のイメージとは異なり、家庭集会に毛が生えた程度の規模だった。その場所で信徒を管理する支部長が、黙示録では「7つの星」と表現されている。星も天使も神の遣いという意味では同じなのだ。そもそも天使に羽があるという考えは誤りで、聖所は天界とつながる聖人を天使と表現する。
「熱い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して・・・・(中略)・・・その人たちはそこに立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも彼らを見送るために一緒に行った。・・・・(中略)・・・主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降っていき、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」 その人達は、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。」(旧約聖書「創世記」第18章1~22節)
アブラハムの天幕を訪れ、ソドムに向かった3人の使いを「人」と記す以上、羽のある天使ではない。彼らは預言者であり聖人だった。彼らには受胎前の主イエス・キリスト(ヤハウェ、エホバ)が導く天の使いという意味では確かに天使だった。
天使の羽がないことはカッバーラでは常識だが、後世に「天使の羽」のイメージが定着したのは、ローマ神話の有翼の神「キューピット」や、ギリシャ神話の有翼の女神「ニケ」がまじりあい、ヨーロッパの中世画家たちが天使の羽を付けて描くようになったことが大きい。
では、聖書には有翼の天使が存在しないかと言うと、実はモーセの時代に記述がある。
「一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かいあい、翼を広げてそれを覆う。」(旧約聖書「出エジプト記」第25章19~20節)
これは、金張りの「契約の聖櫃アーク」のことを述べたもので、契約の聖櫃アークの上には左右一対でケルビムが載せられていた。そのケルビムに翼を持たせていたのだ。ケルビムは「神の威光を表す言葉だが、天使を表すことも多い。そのため、天使に翼があったと解釈したのが、ヨーロッパ人たちだった。バチカンもそうである。
アジアでは象徴を具現化したりすることは日常茶飯事で、例えば「阿修羅像」に顔が3個もついているが、それは現実の姿ではなく象徴である。頭部にの3面は3本柱の暗示と同時に、生命の樹の至高の三角形を示し、3対の腕で三面六臂となり、最後に左右1対の脚で計10のセフィロトを持つ生命の樹を象徴している。
この理屈が欧米人のキリスト教徒にはわからない。欧米化した日本人にもわからない人が多くなった。それと同じように、モーセたちもエジプトの有翼神「バー」「トート」「マート」、さらに有翼獅子の「スフィンクス」の影響も受けたはずである。エジプトで生まれ育った彼らには、エジプト文化は骨の髄までしみ込んでいる。しかも、アークを作ったのは出エジプト直後である。それだけに、デザインにそれを取り入れても何の不思議もない。
アジア人なら、どこまでが象徴でどこからが現実化の区分けはできるが、西欧のカトリックやプロテスタントはそれをもろに受け取った。だから、天使に羽があるというには常識となっている。
このように「天使=有翼」と安直に結びつけると、ヨーロッパ人のような間違いの穴に落ち込む。羽のある天使については、黙示録にもいくつか存在するので、後にその意味を明確にする。