(5)カッバーラの奥義は「三位三体」
カッバーラは、父と子と聖霊が別個の存在で「三位三体」としている。それがカッバーラの基本であり、奥義なのだ。
その知識を保有しているのは世界中で日本しかない。
神道の基本となる「記紀神話」は、最初に現れた最も尊い神を「3柱」と明確に記しており、それぞれが別個の独神だとしている。「古事記」ではそれを「造化三神」、日本書紀」では「元初三神」と表現する。
「天地初めて発(ひら)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。」(「古事記」「天地の初め」)
当然のことであるが、最初の神は最高位の神である。次の神は第2位の神、その次が第3位の神となる。
だから、ほとんどの神社の祭神は3柱になっている。つまり、神道は「三位三体」なのだ。
カトリックもプロテスタントも、このような神道をキリスト教とは無縁の宗教とすることで、真実を覆い隠そうとしている。ところが、そうはいかないのだ。
日本人の祖神は「天照大神」だが、実は女神ではない。天照大神を奉る「伊勢神宮」の古文書から、平安時代に男神から女神に変えられたことが判明している。
「伊勢神宮の別宮「伊雑宮」の神庫(ほくら)から、「先代旧事本記大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)の全72巻が発見された。聖徳太子が蘇我馬子に命じて百官に作らせたとされるこの古史を、群馬県黒滝山の「不動寺(別名・広済寺)の禅僧で、館長でもあった潮音が、伊雑宮から借り受け、江戸の版元を通して世に表した。その出版開始が1679年のことである。
その「先代旧事本記大成経」では、天照を「あまてらす」ではなく「あまてる」と読ませている。実は、ここに重大な秘密が隠されているのだ。
京都の太秦という秦氏のメッカだが、そこに鎮座する「蚕の社(かいこのやしろ)」は、秦氏が建立した神社である。この神社は蚕という名が示すように「シルクロード(絹の道)」と無縁ではない。
正式名を「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてらすみたまじんじゃ)」といい、「天照」の名を背負っている。祭神を見ると「天照国照彦火明櫛ミカ玉ニギ速日命」とある。この長い名は、天照を「あまてる」と読ませ、彦の一字を加えることで、祭神が男神であることを暗示している。
第41代・持統天皇以降、伊勢神宮の内宮で神職を務めてきた荒木田氏は、「天照大神は蛇神で、斎宮が后の役目をしていた」と伝えている。后が斎宮なら夫である蛇神=天照大神は男神ということになる。
1681年(天和元年)頃、幕府は大成経を偽書と断定し、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧・潮音道海、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰したため、大成経は偽書というのが定説となっているのだが、ほかにもこの伝承を裏付ける書物がある。
1287年(弘安10年)頃、神宮祭主大中臣隆通の子で真言宗の僧侶であった通海が、参詣者と僧侶の問答という形で伊勢神宮について解説した「通海参詣記」に、「皇大神宮の神は蛇であり、斎宮は后である。その証拠に天照大神が毎晩、斎宮のところに通ってくると、朝になると布団の中に蛇のうろこが落ちている」と記しているのだ。もちろん、蛇は象徴なのだが、重要なことは、斎宮の床に通うという記述が男神を示唆する点である。
平安末期の「扶桑略記」も天照大神と斎宮の同床を伝えているし、「秀真伝」には天照大神が豊受大神の孫で、男神として天位を継承し、12人の斎宮を得たと明記されている。この記述はイエス・キリストが復活祭後に天の父の右に立ったこと(継承の象徴)や、12使徒を召したことなどと無縁とは思えない。
それが女神に変じたのは、当時の権力者だった藤原不比等の存在が大きい。天照大神を女神と記したのは、日本国史である「古事記」と「日本書紀」である。その記紀が編纂されたころ、朝廷の権力を握っていたのが藤原不比等だった。
まだ政権基盤が固まっていなかった持統天皇の時代には、女神の下で統合される日本の姿を造る必要を感じたのだろう。不比等は、皇祖神である天照大神を男神から女神へと強制的に入れ替える策に出た。記紀の撰録と編纂は、その延長上にあったと考えられる。その策謀は徹底しており、それまで「伊勢神宮」の祭祀全般を受け持ってきた神主職の度会(わたらい)氏を、外宮の豊受大神だけの禰宜に降格させ、代わって中臣氏系の荒木田氏を禰宜に任命している。過去の知識をすべて消し去ろうと画策したのだ。そうしてまでして不比等が隠した天照大神とはいったいどのような神だったのだろうか?