(4)3本柱は何を意味するのか?
カッバーラは生命の樹を象徴している。両者はイコールの関係にあり、それを具現化したのが「生命の樹図」である。
「生命の樹図」の基本構造は、独立した3本柱にセフィロト(単数形はセフィラ)という10個の球体がくっつき、各セフィロトを22本のパス(小径)が結んでいる。注目したいのは3本柱で、生命の樹を具現化した門松も3本柱である。
偶像礼拝を禁止する神道と、ユダヤ教は一致する点が多い。例えば、日本の神社には賽銭箱が置かれているが、それと同じものはユダヤの神殿以外、世界中どこを捜しても見つからない。
「王は命令を出して一つの箱を作らせ、主の神殿の門の外に置かせた。」(旧約聖書「歴代誌下」第24章8節)
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」(新約聖書「マルコによる福音書」第12章41節)
日本とユダヤはシルクロードを挟む両端の位置関係にあり、日本を「極東イスラエル」といっても過言ではない。ユダヤ教は唯一神を教義とする。ところがイエス・キリストはそのユダヤ教の奥義に、3本柱の思想が内在していることを明らかにした。
「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(新約聖書「マタイによる福音書」第28章19~20節)
つまり、イエスは、天界が3神で構成されていることを明示したのである。殉教者ステファノもイエス・キリストと同じことを述べている。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」(新約聖書「使徒言行録」第7章55~56節)
父と子と聖霊という3神構造を明らかにしたイエス・キリストは、受胎する前の霊の状態だった自分を、絶対神ヤハウェだとも表明している。
「そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を、あげた時初めて、「わたしはある」ということ、また、私が自分勝手に何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第8章28節)
「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、私はある」 すると、ユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第8章58~59節)
つまり、イエス・キリストは自らを天の父の子であると表明することで天界の3神構造を明らかにし、受胎前の自分を絶対神ヤハウェだと宣言したのだ。これは当時のユダヤ人にとって許しがたい冒涜であり、特にサンヒドリン(国会)を構成した権力者にとっては、恐怖以外の何物でもなかった。だからキリストを磔刑に処せられたのである。しかし、唯一神を標榜するユダヤ教の聖典である旧約聖書には、神を複数形で記す箇所がいくつも存在する。
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(旧約聖書「創世記」第1章26節)
「主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(旧約聖書「創世記」第3章22節)
イエスは、唯一神の教義が天界構造を示したものではなく、ヤハウェはこの世に関わる神(唯一)のことであると教えたのだが、ほとんどのユダヤ人はそれを理解できなかった。そして、唯一神に固執するユダヤ教徒は、旧約聖書やイエスが述べた言葉を未だ理解できず、その結果、今もなおカッバーラの外に置かれたままになっている。
ではキリスト教はどうかというと、「三位一体」を標榜するカトリック教会やプロテスタント教会も、3神を中核とするカッバーラの奥義から外れていることになる。なぜなら、カッバーラを理解していれば、三位一体が出てくるはずはないからである。三位一体とは、父と子と聖霊が同一の存在だということで、ユダヤ教の唯一神と同じことを言っているに過ぎない。これは生命の樹図からも明らかに間違いである。神は別々に3柱存在する。イエス・キリストもそのことを明らかにした。そうでなければ以下の重要な場面は、すべてイエス・キリストの一人芝居だったことになる。
「イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。その時、天がイエスに向かって聞いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。その時、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が天から聞こえた。」(新約聖書「マタイによる福音書」第3章16~17節)
「三時ごろ、イエスは大声で呼ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクニタ」 これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」(新約聖書「マタイによる福音書」第27章46節)
三位一体を掲げると言うことは、イエスが声帯模写で人々に嘘をついていたと標榜するものである。父と子と聖霊がイエス・キリスト一人のことを言うのであれば、以下のような区分けがなされる道理もない。
「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(新約聖書「マタイによる福音書」第12章32節)
人の子とはイエス・キリストのことで、三位一体ならキリストに対する罪が赦されて聖霊に対する罪は赦されないということはおかしい。このように、ほとんどのキリスト教会が定義する三位一体には、大きな矛盾がある。だから多くのキリスト教会は、ユダヤ教徒と同じく、いまだに黙示録を解読できない状態にある。彼らはカッバーラを知らず、たとえ知っていても真の意味では理解していないのだ。