(3)黙示録を解く鍵は「カッバーラ」
カッバーラとはヘブライ語で「授かるもの」を意味する。授けるのはユダヤの絶対神ヤハウェ(エホバ)、授けられるのは預言者である。だからカッバーラは預言者の鍵ともいえる。
「アブラハムは言ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物ものとして献げた。アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」(旧約聖書「創世記」第22章13~14節)
ヤハウェは、旧約聖書に記された唯一神のことで、「私はある」としか名乗らなかった神として知られる。天地の創造を行い、人類の始祖であるアダムとエバを想像した造物主で、エホバとも発音される。
「神はモーセに「私はある。私はあるという者だ」と言われ・・・・・」(旧約聖書「出エジプト記」第3章14節)
預言者は自らを預言者になりたいと申し出たわけではなく、神が選んで預言者に召している。つまり、これは一方通行の関係であり、「授けられる」という意味の本質である。
預言者は神からの言葉を授かるため、前もって隠された奥義を授かっている。それが鍵であり、カッバーラである。近い言葉で「神権」ともう。そのカッバーラを具体化しているのが「生命の樹」とされる。生命の樹という概念は世界中に広く分布し、旧約聖書にも記されている。
「また園の中央には、命の木と善悪の知識の木が生えいでさせられた」(旧約聖書「創世記」第2章9節)
「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」(旧約聖書「創世記」第3章24節)
これらの記述から、生命の樹は人類に「永遠の命」の不死を与える原動力であり、尽きることのない泉ということになる。永遠の命は、単に肉体的に不死ではなく、霊的な不死をも意味し、高い霊性維持と永遠進歩の原則がある。なぜ霊的不死からというと、始祖アダムに命を吹き込んだのは神の口から出た言葉(息吹)だからである。つまり、霊である。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(旧約聖書「創世記」第2章7節)
人に命を与える生命の樹は、命を与える絶対神ヤハウェの象徴になる。つまり、創世記の記述は比喩であり、神を樹で象徴しているのだ。大地から天に向かって立つ「柱」や「杖」も神の象徴となる。それは天と地をつなぐ梯子でもあり、天と地の約束事を思い出させる存在だからだ。
「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」(旧約聖書「出エジプト記」第4章17節)
「朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された」(旧約聖書「出エジプト記」第14章24節)
杖も柱も元は樹である以上、生命の樹と同格である。そのため、ユダヤでは神を柱で象徴し、石の柱や石塚を立てる場合もある。
「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をべテル(神の家)と名付けた。」(旧約聖書「創世記」第28章18~19節)
「ヤコブは一つの石を取り、それを記念碑として立てて、一族の者に「石を集めてきてくれ」と言った。彼らは石をとってきて石塚を築き、その石塚の傍らで書記事を共にした。」(旧約聖書「創世記」第31章45~46節)
日本の神道でも神を柱で表し、一柱、ニ柱と数えていた。もっとも有名な柱は、長野県の「諏訪大社」で7年ごとに行われる「御柱祭」である。この祭りでは、柱は境内の四隅に立てられる。古くからおこなわれてきた人柱も、生き埋めにされた人は神にささげられる「犠牲」という意味があった。犠牲という字に「牛」が使われるのは、古代ヘブライ人の儀式に牛が使われたことに起因する。牛だけではなく、羊も犠牲の儀式に使われた。義を分解すると、「我・羊」という意味になる。犠牲の子羊とはイエス・キリストのことだ。彼は人類の犠牲となり、十字架の上で人柱として天に捧げられた。
「あなたは、私のために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上に捧げなさい」(旧約聖書「出エジプト記」第20章24節)
なぜ東洋の文字である漢字にそれが表現されているのか? その理由は、黙示録の解説が進められていくに従い、明らかにされていくだろう。飛鳥氏は、与えられたカッバーラの合鍵を用いれば、歴代の西洋的解釈者や単なるカバラ研究者よりも黙示録の真意に迫れるはずだと考えている。