(76)八幡鳩という名の天使
現在、契約の聖櫃アークは伊勢神宮の内宮地下殿に、補完した部分を合わせた契約の聖櫃アークが外宮地下殿に祀られている。内宮と外宮を直線で結び、両者が向かい合った状態で、背後を延長していくと、それぞれ元伊勢に至る。内宮の後ろは伊雑宮、外宮の後ろは籠神社である。
二つの元伊勢の社紋は、いずれもカゴメ紋、すなわち六芒星である。伊勢神宮の内宮と外宮を結ぶ道路には石灯籠が並んでいるが、そこには六芒星が刻まれている。伊勢神宮当局は関与を否定しているが、これを企画した方々はわかっている。
籠神社を奉斉する海部氏の祖先に倭宿祢がいる。神武天皇を迎える際、倭宿祢は明石海峡で浦島太郎伝説の発祥地であることを思えば、亀がシンボルである。これに対して、伊雑宮は倭姫命の前に現れた真鶴が創建の由来とされる。つまり、伊勢神宮の内宮と外宮の「後ろの正面」は鶴である伊雑宮と亀である籠神社で、それぞれ「カゴメ」を印としているのだ。
きわめて重層的な暗号となっているが、第1義として、童謡「カゴメ唄」は伊勢神宮の地下殿に封印された契約の聖櫃アークが、いずれ公開されることを預言している。契約の聖櫃アークが白日の下にさらされるということは、絶対神ヤハウェの臨在を促す儀式が行われることを意味する。しかるべき権能を持った祭司レビ人が執行するとき、天から復活体となった神ヤハウェ、すなわちイエス・キリストが再臨するのだ。
丹後の伝承によると、天女も豊受大神も、鳥籠の中で光り輝いていた。豊受大神を天照大神と読み換えると、鳥籠の中で太陽が光り輝いているとも解釈できる。鳥籠は竹で編まれている。籠目=六芒星はイスラエルの象徴だが、元はカッバーラの奥義を象徴する「生命の樹」に浮かび上がる文様である。「生命の樹」は上下左右、そして斜め方向にも伸びていく。あたかも曼陀羅のような姿は「生命の花」と呼ばれる。
平面だけではない。「生命の花」はユークリッド幾何学のみならず、リーマン幾何学のように球面を覆う。手毬のような姿は、そのまま天体を象徴する。地球はもちろん、惑星や衛星、そして太陽も、みな「生命の樹」からなる「籠」という「生命の花」なのだ。
太陽を一つの籠と見立てた時、そこにいる鳥は金烏(きんう)、すなわち八咫烏である。八咫烏は天照大神と一心同体である。天皇は天照大神の子孫であり、天皇霊を身に宿す現人神である。一方、裏天皇の金鵄もまた、太陽に棲む八咫烏の霊を身に宿す。
だが、しかし、時が来れば、天皇陛下が持つ権能は、再臨した天照大神=イエス・キリストに返還され、裏天皇である八咫烏の任務も完了する。すべての預言が成就した時、太陽という鳥籠から、別の鳥が地上へとやってくる。再臨するイエス・キリストと共に、白い鳩が地上へと舞い降りてくる。
童謡「カゴメ唄」には「かごめかごめ」というリフレインで、実は鳥が2種類いることを示している。太陽という鳥籠には烏の他に、鳩がいるのだ。地上における八咫烏の役目が終わると、新たに「八幡鳩」がやってくる。ユダヤ教徒である物部氏の象徴が八咫烏なら、八幡鳩はユダヤ人原始キリスト教徒である秦氏の象徴である。黒ではなく、真っ白な鳥が平和の名のもとに降臨する。
八幡鳩の正体、それは天使である。真っ白な翼をもった光り輝く天使たちがイエス・キリストと共に、太陽jからやってくる。もっとも翼は象徴であり、背中に生えているわけではない。みな元人間である。太古の預言者や使徒、聖徒たちである。彼らは不死不滅の復活体となって地上に降臨するのだ。
その中には、人祖アダムと預言者ノアもいる。彼らの天使名は、それぞれ「ミカエル」と「ガブリエル」である。古代イスラエル人の守護天使であるミカエルが降臨して露払いをした後、イエス・キリストが大天使ガブリエルほか、多くの天使を伴って地上へとやってくる。そこには、大預言者モーセはもちろん、エノクやエリヤ、エリシャ、ヨシュア、イザヤ、エゼキエル、エレミヤのほか使徒であったペテロやヤコブ、ヨハネら、そして伝道者パウロたちが一堂に会するのだ。
ユダヤ教やキリスト教の聖人だけではない。イスラム教の預言者ムハンマドや仏教の開祖がガウタマ・シュダールタ、ヒンドゥー教のクリシュナ、ジャイナ教のマハーヴィーラ、ゾロアスター教の預言者ゾロアスター、シーク教のグル・ナーナク、儒教の孔子や孟子、道教の老子などのほか、日本でいえば役小角や空海、最澄、日蓮ら、そして大本教の出口王仁三郎に至るまで、みな八幡鳩という天使として降臨する。
カッバーラにおける「万教帰一」の奥義は、ひるがえって古史古伝「竹内文書」に反映されている。現代の地名や歴史的誤謬をあえて散りばめながら、逆説的に真理を語っているのある。
その意味で、今こそ日本はもちろん、世界にとって「竹内文書」の思想が必要なのである。暗号を解き明かし、そこに秘められた奥義を日本人のみならず、全世界の人が悟るときが、いずれ来る。その日は決して遠くはない。