(67)神道とユダヤ教
籠神社がある丹後には徐福伝説がある。はるか昔、大陸を出航した徐福は、舟屋で知られる伊根町の新井崎に上陸したといい、今でも新崎神社で神として祀られている。
徐福の歴史は、浦島太郎伝説として語り継がれている。徐福集団の子孫は、今日の海部(あまべ)氏となった。よって、海部氏が奉齋してきた籠神社の極秘伝の起源は、徐福に始まるといって過言ではない。
徐福は道士だった。一般に道士とは道教の呪術師とされるが、当時は、まだ道教は成立していなかった。正確には、原始的な道教思想というべきだが、その本質は、ずばりユダヤ教である。失われたイスラエル10支族及び東ユダヤ人らの流れを汲む徐福はユダヤ教徒だった。徐福のユダヤ教が元になって、古代の神道ができた。当然ながら、古代神道は唯一神教だったのである。それを籠神社は極秘伝としているのだ。
国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」が編纂され、律令制度が確立した奈良時代以前、神道は唯一神を祀るユダヤ教だった。八百万の神々も、極秘伝である多次元同時存在の法則を適用すれば、唯一絶対神へと収斂する。元初の最高神とは、まぎれもなく「旧約聖書」における唯一絶対神ヤハウェなのだ。
唯一絶対神の痕跡は、記紀の冒頭に残されている。この世の初め、世界は混沌だった。そこへ突如、一人の神が現れる。「古事記」では「天之御中主神」といい、「日本書紀」では「国常立尊」と記す。名前は違うが、同じ神である。何しろ、他に神がいないのだから、当然である。物部氏の歴史が色濃く反映された「先代旧事本紀」では「天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊」という名前になっているが同一神である。
同様に「竹内文書」における元初の神は「元無極躰主王大御神」といい、別名を「天地身一大神」、もしくは「元無極」という。名前は多数あるが、多次元同時存在の法則を適用するまでもなく、これらはみな唯一絶対神ヤハウェのことなのだ。
秦帝国にあった契約の聖櫃アークは二つに分離され、裏契約の聖櫃アークは徐福が船で運び、表契約の聖櫃アークは別動隊が朝鮮半島経由で日本へと運び込んだ。時代的に、徐福集団はユダヤ教徒だったが、別動隊の秦人は少々事情が異なる。確かに紀元前の段階で朝鮮半島に入った秦人は、みなユダヤ教徒だった。彼らは唯一絶対神ヤハウェを崇拝しており、それが神道のベースとなる。
しかし、そこへもう一つ、別のイスラエル人の一派が加わる。聖域のオアシス国家、弓月王国からユダヤ人が流れてきたのだ。彼らはもともと聖地エルサレムにいた原始キリスト教徒だった。イエス・キリスト直系の弟子たちで、ヘブライ語を話すヘブライストだった。
紀元66年、第1次ユダや戦争が勃発すると、エルサレムにいたユダヤ人原始キリスト教徒たちは、ヨルダン河東岸のペラという町に移住し、やがて表の歴史から消える。向かった先は東方、失われたイスラエル10支族や東ユダヤ人がいるアジアだった。シルクロードを通って中国に入ったユダヤ人原始キリスト教徒たちは、そこで故郷である古代ローマ帝国、もしくはユダヤを意味する「大秦国」から一字をとって「秦氏」と称した。
彼らは朝鮮半島に入ると、東ユダヤ人系秦人と失われたイスラエル10支族系秦人とともに、秦韓や弁韓を建国する。やがて、新羅や伽耶の住人となるものの、4世紀、ガド族をいただく騎馬民族と一緒に日本へと渡来してくる。
物部氏と海部氏らが神社を作ったように、秦氏もまた神道を奉じた。ただし、それはユダヤ教ではなく、キリスト教である。しかも、イエス・キリスト直系の原始キリスト教だった。秦氏は物部氏の神社を次々と乗っ取り、ユダヤ教神道から原始キリスト教神道へと教義を塗り替えていく。唯一絶対神ヤハウェを崇める物部神道は、この時絶対三神を崇拝する秦神道へと昇華することになる。
勿論、それには軋轢もあり、物部氏たちの強い抵抗もあった。ついには、宗教戦争にまで発展し、ユダヤ教神道を奉じるニギハヤヒ命(物部氏)と原始キリスト教神道を奉じる神武天皇(秦氏)の軍勢が大和で最終決戦に臨んだ。記紀では、この時天から金鵄が舞い降りて、神武天皇の弓の先に止まり、これを見た長髄彦の軍勢が恐れおののいて総崩れとなったと記す。
だが、実際は、この時イエス・キリストが地上に降臨し、自らを絶対神ヤハウェであると名乗ったのである。ユダヤ教徒である物部氏にしてみれば、驚天動地である。自ら崇拝する絶対神が敵に軍配を上げたのだ。
こうして約束通り、二つの契約の聖櫃アークは合体する。降臨した絶対神ヤハウェ=イエス・キリストの御前で、神武天皇は聖なる契約を結び、大和朝廷を開いた。以来、日本は原始キリスト教国家となったのである。