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「竹内文書」の真相(62)

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(62)表契約の聖櫃アーク

 秦帝国の末期、中原から朝鮮半島に大量の人間が流れてきた。彼らは「秦人」と呼ばれた。秦とあるが、漢民族ではなく、柵外の人という意味である。当時のことを記した「三国志」の「魏志韓伝」が語るところによると、秦人は「秦の役」を逃れてきたと言う。秦の役を万里の長城建設などの苦役と見るか、それとも戦争のことと解釈するか、意見が分かれるところだが、少なくとも混乱状態にあった秦帝国の住民が主流となって、朝鮮半島に流入してきたことは間違いない。

 古代朝鮮の人々は、秦人が言葉も習慣も異なっていることを理由に忌み嫌ったが、余りにも数が多いので、仕方なく朝鮮半島の南東部を分け与えた。どうも彼らは複数の民族だったようで、大きく二つの国を形成する。一つは秦人にちなんで「秦韓(辰韓)」と称し、もう一つは「弁韓(弁辰)」と言って南方に建設された。後に、これら二つの国々は「新羅」と「伽耶」となる。

 朝鮮半島にやってきた秦人の主流はイスラエル人だった。失われたイスラエル10支族の他、東ユダヤ人も含まれていたようだ。この中に、秦始皇帝の密命を受けて、表契約の聖櫃アークを運んできた別動隊がいた。

 その証拠に、新羅と蚊帳の建国神話に、それぞれ「黄金椻」が登場する。新羅では鶏林の木の上に、伽耶は亀旨峰(くじほん)という山の上に、天から黄金の箱が降りてきたと言い、中には、それぞれ始祖となる子供、もしくは卵が入っていた。天から降りてくる黄金の箱というストーリーは、古代人が実際に目撃した契約の聖櫃アークが元になっていると考えられる。

 だが、秦人の歴史には続きがある。4世紀ころ、新羅と伽耶から大量に渡来人が日本列島へと渡ってくる。

集団を率いていたのは騎馬民族の大王で、その配下にいたのが、秦氏と呼ばれる渡来人だった。日本にやってきた渡来人の中で最大勢力を誇る秦氏は、もちろんユダヤ人である。かれらは数多くの神社を作ったことで知られる。神社の中で最も多いとされる稲荷神社と八幡神社は、ともに秦氏が創建している。

 九州には代々、秦氏が神職を務める筥崎八幡宮がある。筥崎という名称は応神天皇の御枹衣(おえな)を箱に入れて埋めたことに由来する。これは新羅や伽耶の黄金櫃神話と構造的に全く同じ伝説である。このことから、表契約の聖櫃アークは朝鮮半島から九州へと運ばれてきたことが推測できる。

 ユダヤ教の契約の聖櫃アークは、神道でいえば神輿である。神輿に関する最古の記録は「続日本記」にある。奈良時代、東大寺の大仏が完成したとき、九州の宇佐神宮から神輿が運ばれてきたとある。宇佐神宮と言えば、全国の八幡神社の総本山である。神職の辛嶋氏は秦氏であり、宇佐がある豊国は「隋書倭国伝」では「秦王国」と呼ばれていた。

 おそらく表契約の聖櫃アークは一時、この宇佐神宮にあったに違いない。地元の伝承によると、かって宇佐神宮にあった本神輿は畿内へと運ばれたきり、そのまま戻ってこなかったという。

 記紀神話によると、かって宇佐には神武天皇がいた。宮崎を出発した神武天皇は宇佐を経由して瀬戸内海を渡り、畿内へと軍勢を進めた。世にいう神武東征である。宇佐に立ち寄った際、神武天皇は表契約の聖櫃アークを手に入れたのではないか、もしくは、すでに騎馬民族の大王として、九州に上陸する際、秦氏を従えて表契約の聖櫃アークを運んできたのではないだろうか。

 だが、表契約の聖櫃アークは本体の半分しかない。敵を蹴散らすスーパーウェポンとまではならなかったようで、畿内入りに際して、神武天皇はかなり苦戦する。何とか紀伊半島を迂回して熊野から山を越えて大和に入る。迎え撃つ邪馬台国の長髄彦の軍勢と激しい戦いになったが、最後の最後、天空から降りてきた金鵄が神武天皇の弓矢に先に止まったことで、勝負は決まった。長髄彦らは金鵄に恐れおののき敗退したのだ。

 しかし、ここで妙な事態となる。勝利を得た神武天皇は自らを天孫族、すなわち「天神の子」であると宣言したのだが、長髄彦は納得しない。それは、すでに自分は「天神の子」を王として仰いでおり、神武天皇は詐欺ではないかと思ったのだ。

 これを聞いた神武天皇は、すぐにピンときた。九州から先に畿内へ入った天孫続がいるからだ。ニギハヤヒ命である。ニギハヤヒ命は長髄彦の妹を妃にしていたのだ。神武天皇は長髄彦に対して、本当の「天神の子」であるならば、御印があるはずだ。お互い、それを差し出して確認しようではないかと提案する。

 長髄彦はニギハヤヒ命から預かった「天羽羽矢(あめのはばや)」と「歩(かち)ゆき」を見せた。これを見た神武天皇は確かに、これを持つ者は「天神の子」であると認め、自らも同じ「天羽羽矢」と「歩(かち)ゆき」を差し出した。事情を知ったニギハヤヒ命は王権を引き渡したが、長髄彦はくすぶったままであり、余りの強情のため、やむなくニギハヤヒ命は義兄を斬ったという。

 さて、注目すべきは「天神の子の御印」である「天羽羽矢」と「歩ゆき」だ。「天羽羽矢」は弓矢であり、「歩ゆき」はそれを入れる矢箱である。お互い自らが持つ武器を見せ合って、同じブランドだったがゆえ、天神の子として認めあったというのだが、実はこれには裏がある。

 二つの御印は暗号である。「天羽羽矢」という言葉には「羽」という字が二つある。羽を翼と解釈すれば、これは契約の聖櫃アークにおける「贖いの座」にあった2体の天使ケルビムだ。向かい合って翼を広げる天使を象徴している。もう一つの「歩ゆき」は基本的には箱である。名称に「歩」とあるように、担いで運ぶ契約の聖櫃アークのことを暗示している。

 あえて、二つの部位を別々の品々として表現し、それをワンセットとみなして御印としたのは、なぜなのか? 理由は簡単である。契約の聖櫃アークが二つあったからだ。贖いの蓋から作った表契約の聖櫃アークと本体の箱から作った裏契約の聖櫃アークである。

 神武天皇は秦人が朝鮮半島経由で運んできた表契約の聖櫃アークを見せて、ニギハヤヒ命は徐福が携えてきた裏契約の聖櫃アークを差し出した。表契約の聖櫃アークにはモーセの十戒石板の他、ガド族が継承したマナの壺があった。これに対して、裏契約の聖櫃アークの中にあったのはアロンの杖だった。

 どちらの契約の聖櫃アークが優位か? 数はもちろんだが、絶対神ヤハウェが顕現する贖いの座がある表契約の聖櫃の方が格上である。それゆえ、事態を悟ったニギハヤヒ命は神武天皇に対して恭順の意を示したというわけだ。


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