(60)物部氏と海部氏
徐福が目指した三神山とは、他でもない、日本列島である。古来、中国において東海とは日本の別名である。徐福は日本にやってきた。このことは「竹内文書」にも記されている。
「大日本根子彦天皇72年ウベコ月(4月)、秦の秦始皇帝の使いとして、徐福が来日した。彼は天国日本に、神代より伝え来れる。不老不死の薬を採集に来たと称し、本意は天国の文字及び歴史を調べに来たものだった」(「神代の万国史」第3編101章 神倭朝第7代)
徐福には別の目的があった。不老不死の仙薬は方便であり、本当は皇祖皇太神宮にある真実の歴史を調べに来たという。スパイのような書き方だが、本来の目的が新たな国を作ることであり、先住民からすれば警戒すべき相手だったということが行間ににじみ出ている。
八咫烏の言葉をもとに分析した結果、徐福集団が最初に上陸したのは丹後であり、2回目が九州北部であることがわかっている。彼らはそれぞれ後に「海部氏」と「物部氏」になった。もともと海部氏と物部氏は同族で「天照国照彦火明櫛ミカ玉ニギ速日尊」なる神を祖としている。最後の部分に注目するとわかるが、ニギハヤヒ命のことである。
九州の物部氏は1~2世紀ごろ、畿内へと集団移住する。その証拠に、九州北部の地名と畿内の地名が位置関係も含めて一致している。しかも、これらの地名を冠した物部氏の名前が「先代旧事本紀」に記されている。
中でもポイントになるのは「ヤマト」である。ヤマトと言えば、奈良県の大和が有名だが、九州各地にも福岡の山門郡や熊本の山都町など、ヤマトと読む地名がある。物部氏という名称は律令制が敷かれて、氏姓制度の下で作られた名前だが、彼らは、元々「ヤマト」と称した。いうなれば「ヤマト族」である。「ヤマト」の由来はヘブライ語「ヤ・ウマト」で、「絶対神ヤハウェの民」という意味である。
このヤマトに中国人が漢字を当てたのが「邪馬台」である。「魏志倭人伝」に記載された「邪馬台国」は「ヤマタイ国」ではなく、「ヤマト国」と読むのが正しい。邪馬台国の所在地を巡っては大きく畿内説と九州説に分かれている。
九州から畿内へと集団で移動した実態は、物部氏だった。九州のヤマト族である物部氏が畿内にやってきたことで、邪馬台国が成立したのである。「魏志倭人伝」が記す邪馬台国は畿内にあったのだ。
当然ながら、先住民たちとの間で争いがおこった。倭国大乱とも称される事態にもなったが、最終的に「卑弥呼」が女王として推戴されると、西日本の国は邪馬台国を中心とする連合国家としてまとまる。当然ながら、卑弥呼は物部氏系ではあるが、正しくは、もう一つのヤマト族である海部氏であった。
邪馬台国の時代、最初に丹後に上陸した徐福集団は「魏志倭人伝」でいう「投馬国」を形成していた。若狭湾を中心にして、中国地方全土を支配下に治め、勢力でいえば、西日本で邪馬台国に匹敵する唯一の国だった。もとは同じ徐福集団であり、戦略的意味もあって、邪馬台国の支配者として海部氏の血を引く卑弥呼を女王とした。
だが、卑弥呼が亡くなると、再び邪馬台国は混乱する。仕方なく、卑弥呼の姪である台与を女王とすることで収まった。しかし、これにより海部氏の政治的な力が強まり、事実上、邪馬台国を乗っ取るまでになった。ついには、邪馬台国と投馬国が一つになり「後期邪馬台国」=「前期大和朝廷」が生まれる。飛鳥氏はこれを大邪馬台国と呼んでいる。
これまでの推理から、徐福が契約の聖櫃アークを運んできた場所は丹後である。最初の航海で契約の聖櫃アークを持ってきた。この時の徐福集団は海部氏となり、投馬国を築いた。最も重要な契約の聖櫃アークは元伊勢、籠神社に祀られる。
籠神社は昔話の一つ「浦島太郎」伝説発祥の地でもある。「日本書紀」にも「浦嶋子」という名前で記載されている。浦島太郎は「日下部氏」となっているが、海部氏と同族である。室町時代に成立した「御伽草子」では、浦島太郎は助けた亀に連れられて、海中の「竜宮城」へと旅をする。「日本書紀」では、これが「蓬萊山」となっている。蓬莱山とは徐福が目指した三神山の一つである。浦島伝説は徐福の日本渡来伝説をもとに作られた物語である。そう考えると、浦島太郎が乙姫様からもらった「玉手箱」とは、まさに契約の聖櫃アークに他ならない。
浦島太郎は竜宮城に行って、玉手箱をもらって帰ってきた。つまり、海部氏である浦島太郎は蓬来山に行って、玉手箱をもらって帰ってきた。が、実際は逆だった。徐福は契約の聖櫃アークを持って蓬来山を目指し、そこにおいて一度、秦帝国へ戻ってきたのである。
玉手箱である契約の聖櫃アークは海部氏が保持し、それは籠神社にて丁重に祀られたことだろう。やがて海部氏の血を引く卑弥呼が邪馬台国の女王として担がれる時、契約の聖櫃アークは畿内に運ばれたのではないか。
浦島太郎の玉手箱は竜宮城の乙姫様からもらったが、徐福が持ってきた契約の聖櫃アークは邪馬台国の女王、卑弥呼の手にもたらされたのである。
だが、そうだとすれば、気になるのは玉手箱である。浦島太郎伝説では、玉手箱は開けてはならないときつく戒められた。浦島太郎が故郷に帰ってきた時、300年が過ぎていた。悲観した浦島太郎は禁を破って、玉手箱を開けてしまう。すると、中から白い煙が出てきて、瞬く間に浦島太郎はお爺さんになってしまった。
どこか雄略天皇の黄金壺の一件を連想させるが、モデルとなったマナの壺は浦島太郎伝説の発祥地である籠神社に祀られていた。一時期、籠神社には契約の聖櫃アークがあったことを考えると、かってのようにマナの壺は中に収められていたのか?
いずれにせよ、玉手箱は取扱注意の危険な代物である。契約の聖櫃アークを手にした卑弥呼は大丈夫だったのか?
結論から言えば、何の心配もなかったはずだ。つまり、玉手箱は既に開けられていた。契約の聖櫃アークには蓋がなかったからだ。