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「竹内文書」の真相(59)

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(59)徐福は契約の聖櫃アークを手にしたのか?

 極めて短期間で中国全土を統一した秦始皇帝であるが、その死後、急速に国が衰退していく。

 紀元前210年、亡くなった秦始皇帝を継いで、息子の胡亥が2世皇帝を名乗るも、政治能力は無きに等しかった。重臣は排除され、最後は自害する。続く子嬰は皇帝の名を返上し、秦王を名乗るものの、最後は項羽の軍の前に散った。樹立から、わずか15年で、秦帝国は滅亡した。

 覇権を握ったのも早いが、滅亡するまでも、あっという間である。中国の統一王朝は短命であるというが、秦帝国の場合、他に理由があるのではないか? 

 スーパーウェポンである契約の聖櫃アークを手放したことが、その隠された理由だったとしたらどうだろうか。

 気になる男が一人いる。徐福である。道教の方士で、不老不死の仙薬を献上するといって秦始皇帝に近づき、まんまと金品はもとより、技術者や童男童女を多数授けられ、東海に浮かぶ理想郷「三神山」に船出した人物である。三神山は「蓬莱山」と「方丈山」と「瀛州山」という名の島のことで、ここには不老不死の仙人が住んでいると信じられてきた。

 栄耀栄華を極めた秦始皇帝であっても、老化と死には逆らえない。最後の望みは不老不死だった。

 いわば、その弱みに付け込んだのが徐福だった。大言壮語して、船出した徐福であったが、7年後、彼は手ぶらで帰ってくる。

 普通なら、ここで打ち首ものだが、そうはならなかった。逆に、不老不死の仙薬を手に入れるためには、もっと貢物が必要であると、再度、出航の願いを秦始皇帝に直訴するのだ。

 よほど生に対して執着していたのだろうか、なんと冷酷な支配者として有名だった秦始皇帝は、またしても許可するのだ。

 案の定、徐福が帰ってくる事は二度となかった。彼は東海に浮かぶ島で国を得て、末永く幸せに暮らしたと、人々は噂しあった。

 秦始皇帝も不老不死の仙薬を手に入れるために徐福の渡航を許可したのか?

 一度失敗しているのに許したばかりか、再度渡航を許した理由は、他にあるのではないか?

 そう思って、徐福の素性を調べてみると、意外なことが判明する。

 徐福と秦始皇帝は、ともに姓が「嬴」なのだ。つまり、同族だ。しかも「嬴」にサンズイをつければ「瀛」であり、三神山の一つ「瀛州山」に通じる。

 すべては仕組まれていたのではないか? 

 徐福と秦始皇帝はグルだった。共謀して東海に浮かぶ島に国を作ることが目的だった

 実行部隊である徐福には、財宝や人材の他、最も大切のものを託した。そう、契約の聖櫃アークである。徐福は契約の聖櫃アークを持って、東海へと船出した。

 契約の聖櫃アークがあれば、新たな国を建てることができる。しかし、代償として、秦帝国は霊的な力を失う。それを秦始皇帝は覚悟していた。

 紀元前220年に行った巡幸の際、秦始皇帝は泰山で天神を祀る「封禅の儀」を執行している。

 この時彼は啓示を受けたのではないか? 

 絶対神ヤハウェから契約の聖櫃アークを三神山へ運ぶように勅命を受けたのではないだろうか。

 絶対神ヤハウェの預言を成就するために、秦始皇帝は同族である徐福を選び、密かに計画を練った。不老不死の仙薬というのは方便であり、大義名分でしかなかった。かくして計画は実行に移され、契約の聖櫃アークは東海に浮かぶ三神山へと運ばれたというわけである。

 ほとんど証拠がない推理ではあるが、正直、なんとも心もとない話であるが、八咫烏のつぶやきからすれば、そうとしか考えられないのである。なぜなら、契約の聖櫃アークは事実、この日本にあるからだ。


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