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「竹内文書」の真相(57)

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(57)失われた契約の聖櫃アーク

 本来、イスラエルの三種の神器は「契約の聖櫃アーク」という箱の中に収められていた。

 契約の聖櫃アークとは、アカシア材で作られ、表面に金箔が貼られた箱である。

 蓋には、翼を広げた一対の天使ケルビム像が置かれ、そこに絶対神ヤハウェが顕現する。

 下には2本の棒がつけられ、祭司が担いで運ぶようになっている。

 いわば、日本の神道でいう「神輿」のようなものである。

 契約の聖櫃アークは移動式の神殿である幕屋の至聖所、後に固定式のソロモン神殿の至聖所に安置され、大祭司が日々、儀式を執り行っていた。

 当初、イスラエルの三種の神器は、全て契約の聖櫃アークの中に収められていたが、後に、アロンの杖とマナの壺は外に置かれ、中はモーセの十戒石板のみとなった。

 古代イスラエル王国が分裂したとき、ソロモン神殿は南朝ユダ王国が継承することになるのだが、紀元前6世紀、メソポタミア地方に台頭してきた新バビロニア王国が侵攻してくる。

 抵抗むなしく、南朝ユダ王国は滅亡する。人々はバビロンへと捕囚され、ソロモン神殿は徹底的に破壊されてしまう。中にあった宝物は、全て略奪された。

 ところが、不思議なことに、新バビロニア王国の戦利品リストの中に、契約の聖櫃アークの名前が無い。最も価値のあるはずのお宝を見逃すはずはない。

 つまり、略奪が起こる前に、すでに契約の聖櫃アークは至聖所からどこか安全な場所へと隠されたとしか考えられない。

 「旧約聖書」には記されていないが、「旧約聖書外典」の「マカバイ書Ⅱ」には、預言者エレミヤが秘密の洞窟に契約の聖櫃アークを運び込んで封印したとある。

 場所は、預言者モーセが約束の地を見た場所、すなわちネボ山の近くである。

 今も、契約の聖櫃アークは秘密の洞窟に安置されているのか? 

 それとも、すでに運び出されているのか? 

 これまで多くの研究家が謎に挑んできた。

 ソロモン神殿の秘密地下室を初め、ドル御他の丘の地下、エジプトのユダヤ教シナゴークの地下、エチオピアの修道所の地下、イギリスの聖堂騎士団が作った教会の地下など、実に様々な説がある。

 しかし、仮にネボ山の洞窟から持ち出されたとして、元のパレスチナ地方やエジプト、ヨーロッパ方面に運ばれたなら、すぐにバレたはずである。

 それこそ、敵国によって略奪されたに違いない。状況から考えると、可能性は東しかない、

 アジアに離散したイスラエル人を追いかけるにあたって、一つの手がかりとなるのが「秦」である。

 秦の字が付く国にはイスラエル人の痕跡がある。古代中国は西アジアの国々まで漢字で表記している。

 古いキリスト教の石碑には「大秦国那薩羅城」という一節がある。「那薩羅」とはイエス・キリストが住んでいたナザレのことである。したがって、ここにある「大秦国」とはユダヤを指している。

 当時、ユダヤは古代ローマ帝国の属国であった。大秦国は古代ローマ帝国の名称としても使われる。約2000年前、古代ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス=大秦王安敦の使者が中国に海路、はるばるやってきたことが「後漢書」に記されている。

 また、古代ローマ帝国の版図にはオリエント地方も含まれる。「仏祖統記」には「波斯国は西海に在り、此れに大秦と云う」と書かれている。「波斯」とはペルシャのことである。時代から考えて、ササン朝ペルシャを「大秦」と称している。バクトリアはアケメネス朝ペルシャを破ったアレキサンダー大王が率いてきたギリシャ人が作った国で、インドのすぐ隣にあった。ちなみに、ギリシャ小国の影響で、インドではガンダーラ仏像が作られるようになる。

 地中海の民であるギリシャ人がインドまでやってきたように、パレスチナ地方にいたイスラエル人たちもシルクロードを通って、アジアへと来たことは間違いない。とくに、これらの大秦国とは縁が深い。勿論、此れには理由がある。


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