(54)モーセの墓
日本には「キリストの墓」や「釈迦の墓」ばかりか、なんと「モーセの墓」もあると「竹内文書」は語る。
場所は、現在の石川県羽咋郡にある宝達山。ここにある三つ子塚古墳群の一つに大預言者モーセが眠っているという。
最も「竹内文書」の現存する史料には、わずか1か所、こう記されている。
「即位二百年イヤヨ月円六日、ヨモツ国よりモオセロミユラス来り、十二か年居る」(「神代の万国史」第2編103章 不合朝第69代)
ここにある「モオセロミユラス」が「旧約聖書」の大預言者モーセのことである。彼は日本の皇祖皇太神宮にやって来て、古神道を12年間学んだという。焼失した「竹内文書」の方には、もっと詳細な内容が書かれていたらしく、ここにあるモーセの来日は2度目であった。
「旧約聖書」によると、幼児虐殺の難を逃れるため、モーセは幼くして葦船に乗せられてナイル河に流された。これをファラオの娘が拾い、エジプト人として育てた。しかし、ある時、彼は出生の秘密を知る。自分が王家の人間ではなく、奴隷として扱われているイスラエル人であることを認識したことで、殺人を犯し、それが原因でエジプトを去り、荒れ野へと逃れる。
この時モーセは燃える芝に顕在した絶対神ヤハウェの召命を受けて、同胞であるイスラエル人を救うために立ち上がる。エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともに、ファラオに直談判するものの、なかなか聞き入れられず、ついには絶対神の怒りが降り注ぎ、全土に災いがもたらされる。さすがのファラオも狼狽し、イスラエル人の解放を認める。こうして、大預言者モーセはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する。これが世に言う「出エジプト」である。
モーセには青年時代に空白期間がある。生まれ育ったエジプトを離れて、しばらくアラビア半島のミディアン地方へ姿を隠している。「旧約聖書」では、そこでミディアン人の娘と結婚したというのだが、このころモーセは中東から東アジア、日本へとやってきた。彼は皇祖皇太神宮で古神道を学び、ユダヤ教の礎となる十戒を奏上したが、残念ながら許しが下りなかった。不本意ながらも、今は同胞を救うことが大切であると決意し、エジプトに戻ったという。
出エジプトに際しては、解放を後悔したファラオがモーセたちを追いかけてくる。最後の最後で奇跡が起こり、海が割れた。イスラエル人たちは、割れた海の底を通って対岸へと移動する。追手が来た時には、海が閉じてみな溺死した。モーセは助かったイスラエル人たちを率いて旅をし、シナイ山へと至る。ここで絶対神の啓示を受けて、契約の「十戒石板」を授かる。
この時、モーセは再び日本を訪れて、ユダヤ教のもとになる教義を伺いに皇祖皇太神宮へとやってきた。現存する「竹内文書」が記しているのは、この時のことだ。焼失した逸文によると、モーセは船に乗って石川県羽咋の宝達水門に上陸したといい、契約の「十戒石」を3つ作った。「表十戒石」と「裏十戒石」と「真十戒石」である。このほかに「縞瑪瑙石」と「魂の形石」を合わせて奉納したといい、今も現物が皇祖皇太神宮に祀られている。
3つの十戒が認めらるまで、実に12年かかった。この間、モーセは天皇の孫に当たる大室姫を娶り、3人の子供をもうけた。許可が下りると、モーセは再び中東へ戻り、イスラエル人に「十戒石板」を与え、ここにユダヤ教が成立する。
荒れ野におけるイスラエル人の旅は約40年にも及んだ。絶対神が約束したカナンの地を前にして、モーセは亡くなる。遺体はモアブの地に埋葬されたが、誰も、その場所を知らない。年齢129歳だったが、モーセは死ぬ直前まで活力に満ちていたと「旧約聖書」に記されている。
そう、モーセの墓がどこにあるかわからないというのである。それはそのはず。「竹内文書」によると、3度、モーセは日本にやって来て、ここで天寿を全うした。亡骸は能登半島の宝達山に埋葬されたという。
*明治天皇が大室寅之祐であることは多くの人々の見解がそれを示している。つまり、モーセの子孫であるということである。飛鳥氏が現皇太子(最後の天皇)はモーセの子孫であると主張する理由がここにある。