(50)前方後円墳とマナの壺
征服王朝は、自らの権力を誇示する。征服民に見せつけるために、形で絶対的な権力を表現する。栄耀栄華を極める壮大な宮殿はもちろんだが、一族の力を最も表すのは、王墓である。生前から巨大な古墳を作らせることは、絶対的な権力を持つ者にとって必要不可欠な事業だった。
日本では4世紀を境に、急激に古墳が巨大化する。古墳時代の始まりは卑弥呼だとされるが、400メートルを超える巨大古墳が建造された背景には、騎馬民族的な絶対王権の確立があった。
巨大古墳は王権のシンボルである。大王はデザインにもこだわったはずである。古墳の形は円墳から方墳、そして前方後円墳など、実に多様である。卑弥呼の墓とも目されている箸墓はもちろん、崇神天皇や応神天皇、そして最大の仁徳天皇の古墳は、みな前方後円墳である。この形が大王にとって重要な意味を持っていた。
これまで、前方後円墳の形に関しては、単に円墳と方墳を合体させたものだという説が、当たり前のように学校で教えられてきた。しかし、さすがに今は違う。あくまでもトータルデザインとして前方後円墳は作られた。大切なのは最終的に仕上がった古墳の形状である。
箸墓を見ても、それは明白だ。円墳はいいとしても、そこに接続する方墳部分は、三角形や台形に近い。しかも、直線ではなく、カーブを描く。先入観なしに、衛星写真を眺めれば、これは壺である。前方後円というからわからない。上下逆さまにして、前円後方だと見れば、連想するのは丸底の壺に他ならない。
前方後円墳が壺を象っているという説は江戸時代からあったが、ようやく最近になって再評価されてきた。道教では、壺の中に異界があると考えられ、死後、大王の魂が仙界へと行けるように、墓の形を壺にしたというのだ。
箸墓には見られないが、応神天皇陵や仁徳天皇陵には、古墳の両脇に造出しと呼ばれる部位がある。ここで宗教的な儀式を行ったというのだが、全体像を眺めればわかるように、これは取っ手である。壺を持つための取っ手が造出しとしてデザインされているのだ。
倭国を征服した騎馬民族にとって、壺は王権のシンボルであり、それを人々に見せつける必要があった。壺の意味を理解した人々は、天皇が何者であるかを十分するほどわかっていたに違いない。彼らはイスラエル人であると。
人は権力を誇示するにあたって、いろいろシンボルを掲げる。王家の紋章や国旗には、そうした意匠が数多くある。
壺を王権にレガリアとして掲げる民族はあるだろうか? まずいない。宗教的なシンボルならば、一つだけある。古代イスラエル人である。彼らは絶対神から授かった神聖な祭具、いわゆる神器を持っている。日本でいえば、「八咫鏡」と「草薙剣」と「ヤサカニノ勾玉」だが、イスラエル人のそれは「モーセの十戒石板」と「アロンの杖」と「マナの壺」である。どちらも三種の神器である。
ここに壺、すなわちマナの壺が存在する。古代イスラエル人は壺を神器として、王権のシンボル、レガリアと考えていた。「旧約聖書」によると、マナとは出エジプトの際、飢えに苦しむイスラエル人のために、絶対神ヤハウェが天から降らせたという食物で、これを最初に収めて奉納した黄金製の壺が神器として継承されてきた。
預言者モーセの時代、これらの三種の神器は「契約の聖櫃アーク」という黄金の箱に入れられ、幕屋と呼ばれる神殿の至聖所に安置された。古代イスラエル王国が誕生し、ソロモン神殿が建設されると、おなじく至聖所に置かれた。
ところが、古代イスラエル王国が分裂し、ソロモン神殿を継承した南朝ユダ王国も、新バビロニア王国によって滅亡、と同時に、契約の聖櫃アークもろとも、三種の神器は行方不明となってしまう。今もって現物は見つかっていない。
だが、その一方で、古代ユダヤにはマナの壺だけは、南朝ユダ王国ではなく、北朝イスラエル王国のガド族が手にしたという伝説がある。ガド族出身を意味するヘブライ語は「ミカド」という。「ミカド」とは天皇を意味する古語である。歴史研究家の小谷部全一郎は著書「日本及日本国民之起源」の中で、天皇は古代イスラエル人のガド族であると主張し、人々の耳目を集めた。
そうなれば、天皇はもちろん、同じ遺伝子を持ち、騎馬民族の系譜を継ぐ釈迦族、ひいては釈迦もまた、イスラエル系だった可能性が出てくる。