(49)釈迦族とスキタイ
謎を解くということは、名の素を解くことだ。釈迦族の素性を探るにあたって、改めて名前に注目してみたい。「釈迦→シャーキャ」とは、サンスクリット語で「力ある者」という意味である。一説に「シャーキャ樹」という樹木名に由来するという。偶像崇拝が禁じられていたため、原始仏教で釈迦を樹木で表現したのには、ここに大きな理由がある。
正確な発音を表記するのは難しいが、ネパールでは釈迦を「シャーキャ」として、西方のガンダーラ地方では「サキャ」、イランに行くと「サカ」と発音する。イランと同じインド・ヨーロッパ語であるギリシャ語では、このサカ族のことを「スキタイ」と呼ぶ。
元々、中央アジアの黒海北部の地名を指したが、そこを拠点とする遊牧騎馬民族をスキタイと呼んだのが始まりとされる。アーリア系とされるが、実態は、様々な民族の集合体だった。
つまり、騎馬民族は民族にこだわりがない。領土を拡大するにあたって、圧倒的な機動力と武力で他国を侵略して、富を略奪する。抵抗する者は皆殺しにし、従えば配下に組み込む。特に女性は戦利品として拉致された。結果、混血が進み、文化的にも国際的豊かになっていく。
ガウタマ・シッダールタが生まれた時、釈迦族はマガダ国の支配下にあったコーサラ国の王族だった。とはいえ、スキタイから見れば、本流ではない。事実上、多民族国家となっていたスキタイから分かれた一派であり、独自の宗教観を持っていた。
それはアーリア系インド人が進行するバラモン教ではなかった可能性がある。だからこそ、当時のバラモン教の教えに疑問を持ち、シッダールタ太子は身分や財産、家族をも捨てて出家したのである。
釈迦族のルーツは騎馬民族スキタイだった。一方の日本民族も、騎馬民族と無縁ではない。「魏志倭人伝」に記されているように、3世紀ごろまで、日本列島に住んでいた倭人は海洋民族であり、かつ稲作をはじめとする農耕を生業としていた。
ところが、中国側の史料における記述が途絶える4世紀を境にして、倭国は変貌を遂げる。一気に中央集権的な国家を樹立し、大和朝廷が開かれる。当時の古墳を発掘すると、大陸様式の品々、特に馬具が大量に出土するようになる。文化の断絶は、そのまま外敵の侵入、征服を物語っている。
考古学者の江上波夫博士は大胆にも、その主体を騎馬民族と考えた。当時、中国大陸は北方の騎馬民族が中原に侵入して、大混乱に陥っていた。その余波は朝鮮半島に及び、騎馬民族の一つ、扶余族が南下してきた。朝鮮半島にあった馬韓は、彼らを忌み嫌いながらも、領地を明け渡し、東方と南方に秦韓と弁韓が成立する。
小国が林立する朝鮮半島南部は不安定であり、そこに同じ扶余族の高句麗が北方から圧力をかけてくる。結果、馬韓は滅び、扶余族が支配する百済となる。同様に、秦韓は新羅、弁韓は伽耶となるのだが、その中に海を渡って、日本列島に新天地を求めようとする勢力が現れる。
「辰王」と呼ばれた騎馬民族は北九州に上陸。倭人を支配下に置いて、軍事的な拠点とすると、そこから瀬戸内海を通り、畿内へと侵行。邪馬台国を征服して大和朝廷を樹立した。記紀神話では、日本にやってきた辰王を第10代・崇神天皇、九州から東征してきた辰王を第15代・応神天皇として描いている。
これが江上波夫博士が提唱した「騎馬民族征服王朝説」である。騎馬民族説が正しければ、倭国の王権は海洋民族から騎馬民族の手に渡った。
実際には、王族同士が婚姻関係を結び、支配下の倭人たちを納得させたとは思うが、4世紀を境に倭国は強力な中央集権国家となり、やがて律令などが整備されて、近代国家につながる日本が誕生したといえるだろう。
墳墓から出土する遺物は、ことごとくスキタイ系文化の影響がみられる。草食動物を襲う猛獣の衣装や黄金製の装飾品、角杯と呼ばれる独特な器など、日本から朝鮮半島、東北アジア、モンゴル、トルコ、東欧、そして北欧に至るまで、彼らの行動範囲は地球的規模だったといっても過言ではない。