(38)十字架磔刑の真相
イエスは本当に死んだのか? 預言通り、彼は3日後に復活した。肉体を伴ったまま、人々の前に現れた。復活という奇跡を信じることがキリスト教の本質だといってよい。復活が事実でなければ、救いの信仰など成り立たない。ここに疑問の余地はない。
「新約聖書」によると、復活したイエスは40日間、弟子たちに伝道した後、肉体を伴ったまま、天に昇っていく。この世の終わりには、全く同じ姿で再び地上に戻ってくると約束して、クリスチャンは今もそれを信じ、再臨を待ち続けている。
だが、果たして、それは真実なのか? キリスト教の神学とは別に、歴史的な事実として、イエスの復活はあったのか? 歴史学者の多くは否定するだろう。本人の信仰とは別に、イエスという人物は十字架刑に処せられて死んだ。歴史の年表に記されているのは、ここまでである。
唯物論的な歴史観の下では復活はあり得ない。復活したかのように見えたという解釈ならありうる。考えられることは大きく3つある。
①イエスは実際に死んでおらず、仮死状態だった。3日後に息を吹き返し、復活したように見えた。
②実際にイエスは死んでいたが、誰かが身代わりとなり、あたかも本人であるかのように振舞った。
③そもそも十字架に係ったのはイエスに似ていた影武者で、影武者が死んだが、本人は生き延びて人々の前に現れた。
いずれにせよ、トリックである。手品のように復活劇を演出した。復活劇の効果は絶大であり、やがて古代ローマ帝国の国教となり、世界宗教へと成長する。多少の差はあれ、そのように歴史学者は考えている。「竹内文書」も、然り。イエスの死と復活は巧妙に仕組まれたトリックだというのである。
「竹内文書」が語るトリックは第3の説である。すなわち、本人の身代わりが十字架刑で死んだという。影武者はイエスの弟で、名を「イスキリ」と言った。彼はイエスと、ほぼ同じ年齢だった。イエスの誕生日が崇神天皇即位61年の1月5日で、イスキリは同年の12月6日。見た目や背格好もそっくりだった。
イエスは垂仁天皇との約束がある。生きて日本に帰らなければならない。事情を知ったイスキリは、自ら身代わりとなることを申し出た。イエスは断腸の思いで、承諾。イスキリは裁判で有罪とされ、十字架刑に処せられて死んだ。
3日後にイエスは人々の前に姿を現し、復活劇を演じた。古神道の教えを弟子たちに説いた後、彼は、亡くなった両親の遺骨と弟イスキリの遺髪を胸に、パレスチナを後にして、日本へと旅立ったという。
さて、イエス・キリストの死と復活については諸説あり、「竹内文書」が言う身代わり説も、その可能性は否定できない。しかし、ここで注目したいのは弟の存在である。
カトリックやギリシャ正教はイエスに兄弟がいたことを認めていない。母親のマリアの処女性は永遠であるからだ。弟がいたならば、再び聖霊によって身ごもらない限り、処女性が保証されない。母マリアはあくまでも神の一人子、イエス・キリストの聖母マリアでなければならないのだ。
しかし、「新約聖書」にはイエスの兄弟が登場する。具体的にヤコブとヨセフ、シモン、ユダ、それに名前不詳の二人の妹がいた。つまり、イエスは7人兄弟の長男だったことがわかる。このうちヤコブはイエスが昇天した後、12使途らのエルサレム教団を率いており、後に殉教している。
これに対して、カトリックは兄弟という言葉は従弟の意味で使われることもあると主張し、またギリシャ正教はヨセフの前妻の子供であり、いわば腹違いの兄弟であると解釈している。
いずれにせよ、「新約聖書」にはイスキリという名前の弟は見当たらない。そもそも、イスキリという名前自体、イエス・キリストを縮めて創作した名前ではないかという指摘もある。
また、6人の他に兄弟がいた可能性も否定できない。「新約聖書外典」の一つに「トマス行伝」がある。使途トマスはイエスが昇天した後、インドへと伝道し、そこで殉教するまでが記されている。
興味深いことに、この中でトマスは「ユダ・トマス」と名乗っている。本名はユダで、トマスは別名、いわゆるニックネームだというのだ。トマスとは双子を意味するアラム語である。問題は、双子の相手である。「新約聖書」には記されていないが、「トマス行伝」には、はっきりと「イエスの双子の兄弟」だと記されているのだ。双子ではないが、同じ年に生まれたイスキリとトマスが重なるのは偶然だろうか。