(37)イエス・キリストの空白の17年間
酒井勝軍と山根キクは、ともにクリスチャンだった。彼らは「聖書」を知っていた。熟知したうえで、「竹内文書」に魅せられた。本来ならば、キリスト教と超ウルトラ皇国史観である「竹内文書」とは相容れないはずなのに、なぜ積極的にのめり込み、作家の佐治芳彦氏の言葉を借りれば「外伝竹内文書」ともいうべき著書を世に問うたのか? 大きな理由の一つは、「聖書」自体に、まだ未解決な謎が多く存在するからである。欧米のキリスト教神学や聖典研究では自ずと限界がある。それを突破するのが「竹内文書」であると期待したのだろう。
「新約聖書」を読んだならば、誰もが抱く大きな疑問がある。それは、イエス・キリストの生涯、特に出生と青年期、そして十字架における死と復活の謎である。
母マリアが聖霊の力によって処女懐胎した結果、生まれたのがイエスである。父であるヨセフでさえも、当初、彼女の不貞を疑った。初期のキリスト教の文書の中には、イエスは私生児であるといい、研究家によっては、本当の父親を古代ローマ帝国の兵士ティべリウス・ユリウス・アブデス・パンテラだと実名で指摘する者をいる。
本当の父親を知っているのは母親だけである。今も、ユダヤ教徒はユダヤ人の定義の一つとして、母親がユダヤ人であることを条件に挙げる。ここで生物学的に男性であるならば、Y染色体を持っているはずで、それは肉体的に父親に由来する。したがって、処女懐胎などありえないと、言ったところで、天地を創造した絶対神の力からすれば、それこそ石ころからアブラハムを創り出すことも可能だろう。出生の秘密が何であったにせよ、イエス・キリストの聖性は、いささかも陰ることはない。
それよりも問題は、あとの二つである。まず、青年期の謎だ。イエスの家は大工だった。勿論、イエスも建築を生業としていた。幼少のころから、イエスは家業を手伝っていたはずである。ところが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、伝道を開始する30歳までの間、どこで何をしていたのか? 具体的な記述は、ほとんどない。唯一、「ルカによる福音書」に、12歳の時に両親とともにエルサレム神殿を訪れ、高名なユダヤ教のラビたちを相手に論争していたという記述があるのみだ。
12歳から30歳に至る17~18年間、全く記録がないのだ。伝道をするためには、それなりの教育や精神修養が必要だったのではないかと思うのは自然であろう。イエスはユダヤ教徒だった。「旧約聖書」を読むための教育を受けていたはずである。「新約聖書」においては教師=ラビと呼ばれる場面もある。12歳で論争するのだから、相当の教育を受けていたはずである。神の一人子であり、全て奇跡的な御業と言われれば、それまでであるが、どうも不可解である。
山根キクは、その答えを「竹内文書」に見出した。そこには空白だったイエスの青年時代のことが克明に記されていたのだ。青年イエスは修行のため、パレスチナを後にして、単身、日の昇る東へと旅立った。苦難の末、たどり着いたのが、日本だった。恐らく彼女は信仰的な確信を得たのだろう。
「竹内文書」には青年期におけるイエス・キリスト来日の記録は書かれていない。手掛かりとなるのは山根キクの二つの著書「光は東方より」と「キリストは日本で死んでいる」の2冊である。ここに「竹内文書」の逸文が反映されている。それによると、イエスが誕生したのは神倭朝(かむやまとちょう)第10代・崇神天皇の御代のこと。即位61年1月5日、エルサレムの郊外ベツレヘムで生を受けた。18歳の時、パレスチナを旅立った青年イエスは船に乗って海路、日本にまでやってきた。上陸したのは能登半島にある石川県宝達港であった。
当時、イエスは越中の御皇城山にあった皇祖皇太神宮を訪れ、神主・武雄心親王のもとで、古神道の秘儀や天文学、超古代史を学ぶ。後にイエスは数多くの病人を癒す奇跡を起こすが、全ては皇祖皇太神宮で学び、身に着けた秘術である。5年にも及ぶ修行を終えたイエスは母国を救うため帰国を決意する。その際、神倭朝第11代・垂仁天皇に、必ず生きて再び日本に帰ってくることを約束している。
ちなみに、イエスは帰還の途中、イタリアへ立ち寄っている。モナコに約7年ほど滞在した後、実家のあるパレスチナへと帰ったという。帰国したイエスは30歳になると、伝道を開始する。多くの弟子たちに、古神道の神髄を述べ伝えた。
3年間、教えはパレスチナはもとより、ローマにも伝わった。古代ローマ帝国にとって、イエスは多くの人々を煽動する危険な存在だった。治安を乱すという理由で監視対象となり、かねてから快く思っていなかったユダヤ教の保守的な指導者たちから敵視される。両者の利害が一致したことで、イエスは逮捕され、ついには処刑されることになる。
「新約聖書には、死んだイエスの遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られたと記されている。今日、キリストの墓があった場所には、聖墳墓教会が建てられている。最もプロテスタントの多くはこれを否定し、エルサレム城外にある通称「園の墓」をキリストの墓に比定している。