(36)山岳祭祀遺跡と黒又山ピラミッド
日本ピラミッドとは、一体何か。学術的に定義することは難しい。ピラミッドとは、形状を指す言葉で機能の説明になっていない。そのため、1990年代に入ると、新しく立ち上げた日本環太平洋学会が中心となって、改めて日本ピラミッドを学術的に調査することとなった。
同学会会長で同志社大学の小川光暘教授は日本ピラミッドを「山岳祭祀遺跡」として再定義した。
日本ピラミッドと称される山の多くは、神社の御神体山である。いわゆる神奈備(かむなび)で、古来、神々が宿るとされた。秀麗な山容を見せる独立峰などは、高千穂のように、神々が降臨する神域だとみなされた。神霊が宿る場所には巨石が置かれた。もともと山の頂には巨石がむき出しになっている場所が多く、これを磐座(いわくら)とした。磐座を中心に神域を囲むようになると、そこは磐境(いわさか)と呼ばれる。奈良県の三輪山などは、その典型例だ。山が御神体ゆえに、大神神社には拝殿しかない。
日本ピラミッドを山岳祭祀遺跡として定義することによって、起源は一気に縄文時代に遡ることになる。縄文時代は1万2000年前から始まるとされるが、これは「正統竹内文書」が言う世界的な大洪水の時期と一致する。最後の氷河期であるヴェルム氷河期が終わり、地球が急激に温暖化したことで、各地の氷床が溶けて、山間部や平野部に大規模な洪水をもたらし、海水面が上昇した結果、沿岸部にあった村や国は水没した。沖縄の与那国島やインドのカンペイ湾など、世界各地にある海底遺跡は、その証拠である。
日本環太平洋学会は、秋田県鹿角市にある黒又山を重点に調査している。黒又山は近くの河川よりも一段高い台地にあり、すぐ近くには有名な縄文遺跡、大湯環状列石「ストーンサークル」が存在する。
調査の結果、黒又山の山頂部にあった神社の下からストーンサークルと同じ石の他、縄文土器が発見され、一帯は遺跡に指定された。つまり、黒又山はストーンサークルと一体であり、大湯の台地全体が複合的な祭祀場であることが分かったのである。
また地中レーダーをかけたところ、斜面には段階状のテラス構造が確認され、山頂部の地下には謎の空間が存在することが分かった。調査団の一人、作家の鈴木旭氏によると、夕方雨が降り出した時、山頂部から煙とともに光が立ち上がった。恐らく、黒又山には未知なる機能が備わっており、今も生きている可能性があるという。実際、地元では黒又山は発光する山として知られており、長野県の皆神山も、1960年代の松代群発地震の際、山全体が光ったことが映像で確認されている。
小川教授ほか、日本環太平洋学会はピラミッドと呼ばれる山岳祭祀遺跡は日本のみならず、環太平洋及び太平洋全域に分布する。ジャワ島のチャンディ・スクーやポリネシアのマラエ、中米のマヤ文明及びアステカ文明のピラミッド、南米インカのピラミッド、そして北米のマウンド遺跡など、これらは、みな山岳祭祀遺跡であり、時代的に最も古いのは縄文時代の遺跡である日本ピラミッドだと主張する。
これは「正統竹内文書」の内容が正しいことを図らずしも裏付けた形になっている。
東北に存在した超古代文明を語るにあたって、避けて通れない人物がいる。「山根キク」である。彼女は熱心な「竹内文書」の信奉者であった。著書「光りは東方より」では、十和田湖周辺に超古代文明の中心があったと述べている。
十和田湖には大十和田山が存在した。大十和田山も日本ピラミッドである。十和利山の裾野には「迷ヶ平」という高原が広がっており、ここが「旧約聖書」に記されたエデンの園があった場所だという。その証拠に、迷ヶ平には「ドコノ森」という小高い山がある。勿論、日本ピラミッドの一つだが、この山には謎の文様が刻まれた石がたくさん存在する。これは神代文字であるともいう。
果たして、ここがエデンの園だったのか? 「八咫烏秘記」からすれば、確かに原日本列島はノアの大洪水以前、超古代アスカ文明の中心地であった。その意味で、十和田湖一帯に中古代文明の名残があっても不思議ではない。そもそも、アダムとエバはエデンの園を追放され、超大陸パンゲアの東方へとやってきた。エデンの園は方角から言って、日本の西方にあったはずである。だが、これで終わりではない、山根キクの関心は超古代十和田湖文明圏のみならず、イエス・キリストにあった。彼女自身、クリスチャンであったこともあり、「竹内文書」に記されたイエス・キリストの来日に興味を持ったらしい。
十和田湖に近い青森県戸来村(現在の新郷村)には、かの有名な「キリストの墓」がある。失われたエデンの園を懐かしんで、イエスははるか西アジアから日本の東北地方へとやってきた。そう考えた山根は1958年、「キリストは日本で死んでいる」を発表し、人々の注目を集めることになる。彼女は気づかなかったが、ここに日本ピラミッドの正体を解く鍵が隠されていたのである。