(35)日本ピラミッド「葦嶽山」
神道には山岳信仰がある。山を一つの御神体と考える。山は聖域であり、そのまま神殿でもある。砂漠の平野が広がるエジプトには、こうした山がない。そのため、人工の山であるピラミッドを築いて、これを神々の神殿としたという。実際、エジプトの三大ピラミッドに関しては、近年、吉村作治教授らによって、墓ではなく、死後の世界を再現した神殿であるという説が唱えられている。
ピラミッドのことは、「竹内文書」の本文には直接、記されていない。しかし、一緒に伝承されている御神宝の一つ「ピラミッド御神体石」に「日来神宮」として登場する。不合朝第10代の皇子、大綱手彦命が勅命を受けて、吉備津根の本に日神・月神・造化神を祀る日来神宮を建てたという。
日来神宮は「ピラミット」、すなわちピラミッドのことだ。ちなみに、ピラミッドとは三角形を意味するギリシャ神話に由来する。元は三角形のお菓子をもってピラミッドを揶揄したことが始まりらしい。
日来神宮に注目したのが、元軍人の「酒井勝軍」である。彼は吉備津根の本を広島県比婆郡本村(現在の広島県庄原市)に比定し、きれいな三角形の稜線を見せる「葦嶽山」こそ、世界最古の日本ピラミッドであると断言した。もっとも、酒井勝軍については疑惑がある。東京に住んでいた竹内巨麿の下に、彼はご神体の偽造を持ちかけたのではないかということだ。日本ピラミッドの証拠が「竹内文書」にあるはずだという期待に応えて、神代文字が刻まれたご神体を作ったのではないかと指摘する研究家もいる。これもまた、「竹内文書」を世に出すためのカムフラージュの一環だとみなすことができる。
一方、竹内睦泰氏自身も、疑問としながらも、「正統竹内文書」にもピラミッドの伝承はあるという。スメル族が建造したピラミッドは「飛来御堂」と呼ばれているらしい。古代エジプト文明のルーツが日本だとすれば、「日本飛来御堂」が存在しても不思議ではない。
葦嶽山ピラミッドの発見は、「中国新聞」を初め全国の新聞で報じられ、一大センセーションを巻き起こす。以後、酒井勝軍は全国を歩き回り、各地で超古代の日本ピラミッドを次々と発見することになる。
1964年、酒井勝軍は郷土の鳥谷幡山(とやばんさん)の招きにより、青森県の戸来村を訪れ、ここで「大石神ピラミッド」を認定。翌年、飛騨高山で「上野平ピラミッド」を見つける。特に飛騨高山の位山は「竹内文書」によると、天神第7代1世の時、日玉国と名付けた日神の皇太子の大宮があった。「竹内文書」とは別に、地元では飛騨王朝の存在が口伝として残っており、それによると飛騨は人類発祥の地であるというのだ。聖なる位山は、その意味で日本ピラミッドと言っていい。また、同じく飛騨にある日輪神社の境内は生えている樹木もあってか、見事なピラミッドに見える。
酒井勝軍が著した「太古日本のピラミッド」は超古代研究家のバイブル的な存在となり、これをもとに全国で日本ピラミッド捜しがブームとなる。長野県の皆神山、広島県ののうが高原、青森県の十和利山、ドノコ森、靄山、秋田県の黒又山、岩手県の姫神山、五葉山、茨城県の筑波山、静岡県・山梨県の富士山、滋賀県の三上山、奈良県の三輪山、大和三山、京都の日室山など、およそ霊山やご神体山とされる山々が日本ピラミッドと呼ばれるようになった。
古代エジプトのピラミッドは全山が人工建造物であるが、日本ピラミッドの場合、自然の山を利用して、巨石を拝することで構築される。神社に拝殿と本殿があるように、日本ピラミッドの多くはご神体山と巨石遺構がワンセットになっている。葦嶽山の場合、尾根伝えにある鬼叫山が拝殿に当たり、そこには烏帽子岩などの磐座が存在する。酒井勝軍によると、日本ピラミッドの頂上には、太陽石が置かれ、そこを中心にして小型の石が並べられ、近くには方位石が置かれることもある。必要に応じて、山容は削られて整形される。必ずしも三角形の稜線である必要はないが、巨石遺構は必須である。
1984年ごろ、第2次日本ピラミッド・ブームが起こる。火をつけたのは「週刊サンデー毎日」で、葦嶽山を初め、日本ピラミッドを紹介するキャンペーンを行った。作家の小松左京氏らも協力して、テレビや新聞などのマスコミが注目する。この当時、月間「ムー」も、盛んに日本ピラミッドを取り上げていた。その過程で、古史古伝「竹内文書」の存在も一般に知られるようになった。