(22)竹内巨麿の八咫烏会見
飛鳥昭雄氏は20歳のころ、京都の加茂川のほとりを歩いているとき、最初に出会って以来、定期的に八咫烏と会っているという。詳しいことはわからないが、彼らの占術によって飛鳥氏が選ばれたのだろう。いつも上から目線で接し、こちらの器量を推し量ってくる姿は、決して愉快なものではないという。しかし、その都度、重要な情報をもたらし導いてくれるという。
その過程で、飛鳥昭雄氏は八咫烏から「竹内文書」の真相を聞いたことがあるという。竹内巨麿は御嶽教を通じて古神道を学んでいた。管長の鴻雪爪の門下生には、川面凡児や出口王仁三郎がいたとされる。古神道系の新興宗教には、少なからず八咫烏の息がかかった人物が関係している。何かの拍子に、竹内巨麿も八咫烏の存在を知り、単身、接触を試みてきたらしい。場所は京都、鞍馬の某所だった。会見を許された竹内巨麿は八咫烏が保持する神道奥義、すなわち「八咫烏秘記」を所望し、それを自ら興す宗教の聖典にしたいと申し出た。さすがに門前払いに近い形で断られたという。
しかし、竹内巨麿も、タダ者ではない。再び会見を願い出ると、様々な交渉を持ちかけた。許可が下りないのなら、八咫烏の存在を公表し、「八咫烏秘記」の全文公開を訴えるぞと言ったかどうかはわからないが、根負けしたのか、八咫烏が折れた。
もちろん、「八咫烏秘記」を公開することはできない。ただし、条件がある。内容や表現を全く変えること、つまり、文章を改変し、原文がわからないように再構成すること。アカデミズムによって「八咫烏秘記」の存在を感づかれることがないよう、表向きは明らかな偽書を装うこと。具体的には、文体を今風に改め、言い方や表現を現代文にし、かつ現代地名を盛り込めと言うのだ。
竹内巨麿も戸惑ったと思うが、それしか道はないと判断し、八咫烏の条件を全面的に飲み、「八咫烏秘記」をもとにした「竹内文書」を創作することを決意する。時代が時代だけに、場合によっては不敬罪になるかもしれない。実際、竹内巨麿は不敬罪に問われ、皇祖皇太神宮は当局によって弾圧を受けるのだが、まさにぎりぎりの選択だった。
むしろ、積極的に偽書に見せかけることで「八咫烏秘記」の内容を世に出すことができる。わかる人が見れば、そのトリックを見破れるはずだ。「竹内文書」には真実が含まれていうことが噂になれば、学界は無視しても、生き延びることができる。竹内巨麿の覚悟は、よほどのことだったに違いない。
かくして「竹内文書」は誕生した。真贋論争が巻き起こり、裁判にまでなった。アカデミズムは偽書の烙印を押し、存在を無視する。一方で、在野の超古代史研究家らは、こぞって「竹内文書」に注目し、今日に至っている。
したがって、本当の「竹内文書」、すなわち「八咫烏秘記」の内容を知るためには、この中に挿入、改竄された文言をすべて排除していけばいい。現代の地名や表現などを丁寧に取り除けば、自ずと真実が見えてくる。「正統竹内文書」と比較しても、「竹内文書」には重複する箇所が少なくないというのは、そのためである。
ただし「八咫烏秘記」のスケールは壮大である。「正統竹内文書」と言えども、これには及ばない。なぜなら「八咫烏秘記」のベースは「聖書」にあるからだ。「旧約聖書」や「新約聖書」はもちろん、長い歴史の間に失われた正典をも抱合している。
次からは、飛鳥昭雄氏が目にした「八咫烏秘記」の内容をもとに、全く新しい視点から「竹内文書」並びに「正統竹内文書」を読み解いていくことにする。