(17)竹内巨麿の謎
竹内巨麿は実に奇妙な人物である。武内宿祢の第66代目の子孫だと称し、時に自らを「宿根」と名乗った。文字が「宿祢」ではなく「宿根」になっているあたり、気になるところである。
あたかも直系のような印象を受けるが、実際のところ、本人も認めているように、もともと竹内巨麿は天津教竹内家の人間ではない。養子である。養祖父は竹内三郎右衛門と言い、養父は竹内庄蔵で、戸籍上は実子として届け出されている。幼名は「竹内岩次郎」と言った。ただ、その出生については謎に包まれている。それは、伝記の内容と不敬罪に問われて逮捕された時の捜査資料の記述があまりにも違うのだ。竹内巨麿の伝記「では話そう」及び元本である「明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚」によると、彼は庶子ではあるが、やんごとなき華族の出身だという。これに対して「特高月報」には木挽職人と寡婦との間に生まれた私生児だと記されている。
当然、国家権力による調査のほうが信憑性があるように思える。しかし、竹内巨麿の母親については杉政みつとあるものの、父親の木挽職人の名前は森山勇吉と姓不詳で竹次郎があり、定かではない。皇室に対する不敬罪なるものが存在していた時代背景を考えると、特高警察の意図は別なところにあったのではないかと思えてくる。
むしろ、「明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚」にこそ、「竹内巨麿」が生まれる重要な鍵が隠されているのではないか。不敬罪に問われていても、公開しなくてはならない真実が含まれている「竹内文書」を残さなくてはならない。そのために、あえてフェイクを散りばめたのだ。同様に竹内巨麿の半生についても、虚飾に彩られたドラマが事前に用意されていたとは考えすぎだろうか。
竹内巨麿の伝記は、そのまま演劇のお題目になると言ってもよい。曰く、竹内巨麿の父親は第59代・宇多天皇の皇子、敦実親王の32代の孫である庭田権大納言従一位伯爵源重胤卿にして、母親は大中臣清麿34代の孫である藤波神宮祭主正二位子爵大中臣光貞卿の娘、奈保子にあらせられると。
藤波神宮とは伊勢神宮のことで、元内閣官房長官の藤波孝生は伊勢神宮の祭主大中臣氏の家計に連なる。言うまでもなく、藤波氏は藤原氏である。つまり、竹内巨麿は宇多源氏と藤原氏の血を引いているというわけである。
ただ、諸事情により、竹内巨麿は庶子扱いとなる。解任した奈保子は、しばらく藤波家の遠縁にあたる富山の山本家に預けられ、竹内巨麿を出産する。生まれた赤ん坊の体には痣があり、世界地図の形をしていた。「竹内文書」によると、不合朝70代・神心伝物部建天日嗣天皇の御代、皇后が神憑りとなり、左腿に万国図の痣を持ったものが神主になるという神託が下りたとされる。竹内巨麿は、まさに予言された子供であった。
誕生の知らせを受けた父親の庭田重胤は自らの名前から字を取って「重篤」と命名。庭田家の系譜や刀剣と言った家宝を御印として与えた。
ところが、藤波奈保子が暴漢に襲われ。やむなく自害。幼い重篤は家来の下西九佐右門に抱えられて難を逃れるも、追っ手を危惧して各地を転々とした後、偶然にも兄の竹内三郎右衛門に出会う。事情を聞いた竹内三郎右衛門は赤子を引き受け、息子の竹内庄蔵に預ける。当時、すでに竹内庄蔵は森山勇吉の子供で、未亡人となっていた杉政みつが生んだ「岩次郎」を養子に迎えていたが、病弱だったことを理由に愛宕神社の境内に捨ててしまう。彼は敵の目を欺くため重篤を岩次郎にすり替えて、厳太郎と改名した上で新たに養子とした。
このとき、下西久左衛門が携えていた宝物は竹内庄蔵の手に渡ることとなるのだが、これが後々、火種となる。宝物に目がくらんだ竹内庄蔵は厳太郎を虐待、妻ちよは夫を毒殺しようと画策する。ついに夫を毒殺したちよは失踪し、最悪の状態を迎える。
もはや竹内家も終わりだと危惧した竹内三郎右衛門は、程なくして亡くなる。ご神宝はもちろん、秘史「竹内文書」を相続した竹内厳太郎は、「世の中が平和になったときに公開せよ」と言う遺言のもと、翌年、大志を抱いて上京する。