(16)天津竹内家と正統竹内家
「竹内文書」は二つある。皇祖皇太神宮系「竹内文書」と皇祖皇大神宮系「正統竹内文書」である。
前者は、茨城県磯原にある竹内家、後者は南朝小倉宮竹内家が継承してきた。以後、「天津教竹内家」と「正統竹内家」と呼ぶ。両家は、ともに武内宿祢に由来し、南朝にゆかりが深い。長らく祖先が居住し、墓所があったのは、やはり越中であり、今の富山県だった。世に出るの当たって、予言めいた逸話があるのも似ている。両家の関係は、いったいどうなっているのだろうか?
これに対して、竹内睦泰氏は天津教竹内家の系図に疑義を呈する。正統竹内家の先祖の一人に竹内李治と言う人物がいる。彼は重要文化財「久我家文書」にも登場し、歴史的に織田信長に殺されたことがわかっている。ところが、天津教竹内家の系図では南北朝時代の人物として登場する。明らかに史実と異なる。こうした誤謬が数多くみられるという。
口伝によると、正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿祢麻呂がいる。彼らは陸奥国出身で、平安時代初期に、祭主の留守を預かる宮守にして、墓守に起用された。代々、子孫は正統竹内家の墓守をしてきたのだが、天津教竹内家の祖先に大伴部仲麻呂なる人物がいるのだ。
問題は正統竹内家の墓である。越中国射水郡二上山山頂付近にあった墓には、神宝と古文書が多数、埋められていたのだが、江戸時代末期から明治初期にかけて盗掘の憂き目に遭う。貴重なお宝は骨とう品として流出。これらを買い取ったものがおり、一部が天津教竹内家のもとに持ち込まれたのではないか。慎重に断定を避けながらも、そう竹内睦泰氏は考えているという。
実際、場所は異なるものの、天津教竹内家の伝承でも、御神宝と「竹内文書」は越中国婦負郡にあった一族の墓地から掘り起こしたと語っている。
いずれにせよ、盗掘は大事件だった。御神宝や古文書を盗まれたのは、そもそも霊的に問題があったからだ。墓所の管理者としての責任を感じた第72世・武内宿祢は霊嗣之儀式を行うことができなくなる。彼の死後、武内宿祢が空位となり、それが100年余り続くことになる。しかも、この間に竹内巨麿が「竹内文書」を公開し、天津教を興して世間の注目を集めるが、「竹内文書」が学術的に偽書の烙印を押されてしまう。これについては正統竹内家も、かなりダメージを受けたという。
やがて、1965年に竹内巨麿は亡くなる。奇しくも、その翌年、竹内睦泰氏が誕生する。予言通りだった。正統竹内家の長老たちは慎重に検討し、太占をした結果、彼こそが第73世・武内宿祢であると断定する。正統竹内家の当主3代にわたって空位だった武内宿祢は、ここに復活することになる。
出口王仁三郎は天津教の「竹内文書」を読んだことがあり、その時の感想として、「自分が神様から聞いた文書とは内容が少し違うが、そこに真実も含まれている」と語ったという。
ここで「神様から聞いた文書」こそ「正統竹内文書」に他ならないと武内睦泰氏は主張する。口伝ゆえ、おそらく読んだのではなく、正統竹内家の人間から伝え聞いたか、あるいは秘密結社である竹内神道と接触して内容を知った可能性がある。
このあたり、竹内睦泰氏は「竹内文書」には「正統竹内文書」と重複する部分があると認めている。内容的には雑伝の類が多い。「正統竹内文書」の口伝は、その重要度から極秘伝・秘伝・奥伝・総伝・皆伝・上伝・中伝・初伝と言うレベルがある。竹内神道の人間であっても、後南朝と古神道の家人が許されるのは総伝まで、奥伝から秘伝、極秘伝は正統竹内家のみが伝承を許される。
雑伝はこれらの含まれない口伝で、信憑性に欠けるものもある。ただ内容的に興味深いので、長老たちも積極的に語り、斎主らとも情報を共有する。特に儀式を終えた後の直会の席で面白おかしく語れれることも多い。それゆえ、正統竹内家の周辺の人間にも漏れ伝わることがあるのではないかと武内睦泰氏は言う。
確かに天津教竹内家の人間が正統竹内家の雑伝を知ったことはもちろん、流出した古文書を手に入れて、「竹内文書」を書いた可能性はあるだろう。今世に出ている「竹内文書」の内容もいくつかバージョンがあり、加筆及び改変された部分もある。現代の地名を積極的に入れ込んでいるあたり、確信犯的な臭いがする。
ここで改めて気になるのは原典である。「正統竹内文書」は口伝であるが、一部、文書になっており、それを長老が継承しているらしい。墓所にあった古文書が「正統竹内文書」の一部だった可能性がある。
そうなれば、逆説的に、全ての内容を記した「真竹内文書」が存在する。第73世・武内宿祢である竹内睦泰氏も与り知らない超極秘伝が文書と言う形で保持されているのではないだろうか。
実は、数々の疑惑のある天津教の竹内巨麿は「真竹内文書」の存在を知っており、それをやんごとなき人物から直接、見せられているのである。