(14)第73世・武内宿祢
アカデミズムにおいて「竹内文書」は偽書扱いである。神代文字はもちろん、書かれている文体や言葉遣いが近世のものであり、決して古代に遡ることはない。ましてや、現代になって付けられた外国の地名が登場することに至っては、歴史学的な検証に耐えられるはずもない。こうした状況に常々、義憤を感じてきた男がいる。
古神道本庁統理にして皇祖皇大神宮祭主「竹内睦泰(むつひろ)」、別名を「第73世・武内宿祢」である。
彼は言う。今、世に知られる「竹内文書」は確かに偽書である。しかし、それは改竄されたテキストであって、本物ではない。そこには神代文字や現代の地名は登場しない。まさに、本物の「竹内文書」が存在するというのだ。
いったい、彼は何者なのだろうか? 称号ともいうべき名には「武内宿祢」とある。しかも、第73世と冠されている。竹内氏によれば、そもそも武内宿祢は一人ではない。武内宿祢とは歌舞伎や相撲界で見られるように、世襲名なのだという。古代の武内宿祢が長寿だった秘密はここにある。記紀に300歳以上の年齢で登場するのは複数の人間が武内宿祢と名乗ったことが理由の一つである。もう一つは使用した歴法の違いである。古代は春秋歴といって、1年間で春と秋の2回、正月を迎える。300歳だから、現代の歴では150歳だ。さらに、第1世・武内宿祢は二人いた。親子が一人の武内宿祢と称して記載されていた。平均すれば、一人当たり75歳である。古代においては、かなりの長寿だが、それでも十分現実的な数字である。ただし、実際のところ、記紀に記された武内宿祢は、第1世から第5世の実績を繋げて、一人の人物として描かれているという。
竹内睦泰氏は第73世・武内宿祢であって、第73代・武内宿祢ではない。73代なら73人の武内宿祢が存在したことになるが、実際は73世である。第1世・武内宿祢が二人いたように、少なくとも74人以上は存在した。彼らは歴史の表で語られる名前のほか、裏の世襲制の武内宿祢と言う称号があったのだ。
ある意味で、特殊な存在である武内宿祢とは、いったい何者なのだろうか? これについて竹内氏は大和朝廷における統治形態を知る必要があると指摘する。簡単に言えば、支配者は二人いる。大王と大臣である。大王は天皇家であり、日本における「国体」を担う。同様に、大臣は竹内(武内)家が「政体」を担う。天皇家と武内家は支配権において対等な立場にあるというのだ。
具体的に、初代大臣は武内宿祢で、第2代大臣は息子の平群木菟宿祢、第3代大臣は孫の平群真鳥、第4代大臣は曾孫の平群鮪と続く。彼らは武内宿祢の称号を継承し、それぞれ平群木菟宿祢が第7世、平群真鳥が第8世、平群鮪が第9世となる。ただし、平群鮪は雄略天皇と対立して殺されてしまう。以後、平群氏の嫡流は途絶え、大臣は世襲ではなくなる。
続いて大臣を継いだのは葛城氏であった。「日本書紀」に記された武内宿祢の子供は平群木菟宿祢のみだが、「古事記」には男女合わせて9人の名前が記されている。すなわち、波多八代宿祢、許勢小柄宿祢、蘇我石川宿祢、平群都久宿祢、木角宿祢、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城長江曾都毘古、若子宿祢である。彼らを祖として、波多氏や巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏などが出る。
大臣は葛城氏から巨勢氏を経て、蘇我氏へと受け継がれる。蘇我石川宿祢から満智、韓子、高麗、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続き、やがて大化の改新を迎える。これら武内宿祢の末裔は、特別に「正統竹内家」と称す。
正統竹内家の人間は武内宿祢を名乗る資格がある。ただし、条件がある。つまり、儀式が必要なのだ。天皇が「大嘗祭」を行うように、武内宿祢は「霊嗣之儀式(ひつぎのぎしき)」を執行する。大嘗祭で天皇霊を宿すことで現人神となるように、霊嗣之儀式によって武内宿祢霊を降ろすのだ。その際、武内宿祢霊のみならず、布都御魂神(ふつのみたまのかみ)も同時に降ろす。両者の霊を身に宿すことによって、はじめて武内宿祢となるのである。
武内宿祢を継承した正統竹内家の当主は、この時武術として「竹内流柔術」及び「竹内新流剣術」を受け継ぐとともに、門外不出の口伝を授かる。歴代の武内宿祢が語る口伝こそ、本物の「竹内文書」、すなわち「正統竹内文書」なのだ。口伝ゆえ、文字に記されてはいない。「文書」とあるが、あくまでも象徴的な表現であって、全ては言葉で伝えられ、それらをデータとして頭脳に記憶するのだ。ある意味、武内宿祢はパソコンのメモリーやハードデスクと言った記録媒体のような存在でもある。