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「竹内文書」の真相(13)

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(13)「竹内文書」と南北朝

 偽書が大量に作られるようになるのは鎌倉時代以降である。歴史学的に、古史古伝は用語の分析などから、主に近世に記されたと言われている。少なくとも、今日、目にすることができるテキストのほとんどは江戸時代後期、もしくは明治時代以降の作である。

 一方で、記された伝承は室町時代か、南北朝時代にまで遡ることができるという指摘もある。民族学者の菅田正昭氏は「隠れたる日本霊性史」の中で、中世における尊王思想を記す「神皇正統記」や「神道五部書」、さらには能の秘伝書「明宿集」は、みな神武天皇以前の神々の治天下年代が異様に長く記されていると指摘する。

 具体的に、ニニギ命が約31万年、ホホデミ命は約63万年、ウガヤフキアエズ命は約83万年も統治したことになっている。中でもウガヤフキアエズ命の治天下年代は、古史古伝である「宮下文書」のウガヤ朝の約82万年と非常に近い。同じウガヤ朝の存在を語る「竹内文書」の場合は約392万年と圧倒的に長いが、すべては共通した尊王思想のもとに成り立っているという。

 これを歴史の伏流水とみなせば、「竹内文書」の思想は南北朝時代にまで遡ることができる。事実、「竹内文書」は「後醍醐天皇神勅」や「長慶天皇太神宮御由来」と言った南北朝時代の資料を含んでいる。同じことは「宮下文書」にも言え、「長慶天皇記略」と言った南朝資料が存在する。「南朝」は古史古伝の謎を解くキーワードの一つだと言ってよい。

 「竹内文書」を保持してきた武内宿祢の子孫、すなわち竹内家は南朝を支持していた。つまり、当主であり、天神人祖一神宮改め万国棟梁皇祖太神宮の第7代目の宮司であった竹内惟真は後醍醐天皇の皇女である良子内親王を妻に迎えていたからだ。辛くも難を逃れた宝物と「竹内文書」は竹内家の人々によって大きな甕に封印され、一族の墓地の地中深く埋蔵したと伝えられている。

 その際、一つの予言がなされた。すなわち、いずれ再び天皇が実権を握る。その時掘り起こして、皇祖皇太神宮を再興すべし、と。

 時は流れ、明治の代になると、予言通り、天皇は再び政治的な権力を手にする。時は来たれり。当時、養子として竹内家の人間となっていた巨麿は、養祖父母や養父母と死別した後、明治26年、すなわち1893年の秋、祖父の遺言に従って墓地を掘り起こし、大甕の封印を解き放った。第66代宮司・竹内巨麿の手によって、幻の「竹内文書」は再び日の目を見ることになった。

 南北朝を経て室町時代に封印された「竹内文書」は予言通り、明治時代、あるいは昭和の世になって公開された。武家から皇室へ、政治権力を手にした明治天皇は南北朝とゆかりが深い。明治帝は南朝の名誉を回復したことで知られる。学者の間で巻き起こした南北朝正閏論をもとに、三種の神器を保持した南朝は正統であるという判断を下したのである。

 これについては、異説がある。明治天皇はすり替えられたというのだ。父である孝明天皇と皇太子は岩倉具視らによって密かに暗殺され、後南朝の流れを汲む大室寅之佑として即位したというのである。もし、このうわさが史実だとすれば、明治天皇の聖断は、ご自身が南朝の流れを汲むことが理由だったとも考えられる。南朝復活による天皇親政こそ明治維新の真の目的だったのではないか。明治になって、南朝と関係の深い「竹内文書」が公開されたのも、歴史の必然だったのではないだろうか。

 ついでに竹内巨麿が公開した三種の神器をめぐっては、自称、後南朝系の熊沢天皇が所有権を主張したことがある。曰く、南朝の秘宝が盗難に遭い、それを竹内巨麿が手に入れたのだと。熊沢天皇の言い分では「竹内文書」もまた本来は南朝の物だということになる。

 このように、「竹内文書」には常に南朝の影が付きまとう。それは昭和から平成の世になっても同様だ。何と、もう一つ、全く別の「竹内文書」の存在が明らかにされたのだ。しかも、南朝ゆかりの人物によって。


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