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「竹内文書」の真相(12)

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(12)後南朝

 北朝の光明天皇は足利尊氏が擁立したもので、その王権を裏付けるレガリア、すなわち三種の神器は偽物である。そうとなれば、天皇としての正当性は南朝にあるというのが、後醍醐天皇の主張である。南朝の忠臣、北畠親房は関東において勢力の結集を図り、南朝の正当性を示す「神皇正統記」を著す。

 だが、足利尊氏が室町幕府を開き、武士たちをまとめ上げると、時代の趨勢は北朝へと傾いていく。後醍醐天皇が逝去し、1354年に北畠親房も死去すると、南朝の勢力は次第に衰退する。後醍醐天皇から、後村上天皇、長慶天皇、そして後亀山天皇へと続いた南朝は1392年、最後の時を迎える。

 室町幕府が主導する形で、再び「両党迭立」の合議が行われたのだ。「明徳の和約」と呼ばれる和議の内容は、こうである。

①南北朝統一後の最初の天皇は、現在、北朝の後小松天皇とする。

②その後は、南朝の後亀山天皇の皇子、小倉宮実仁親王を天皇として即位させる。

③以後、南北朝それぞれから天皇を交代で輩出する。

 これを了承した南朝の後亀山天皇は京都に入り、北朝である後小松天皇に三種の神器を譲ることで、ついに南北朝の統一が実現する。これによって、南北朝と言う異常事態に終止符が打たれると誰もが思った。しかし、現実はそれほど甘くない。室町幕府には、まだ後醍醐天皇憎しとする勢力が残っていた。足利尊氏の北朝勢力が厳然たる力を持っている中、明徳の和約は事実上、反故にされてしまう。すなわち、後小松天皇の次代に、その皇子であった称光天皇が即位したことを契機に、北朝によって天皇位が独占されてしまうのだ。

 こうした状況を事前に察知した後亀山上皇は、1410年、京都を出て、再び吉野へと居を移し、南朝復興を計画する。これが世に言う「後南朝」の始まりである。

 だが、吉野に居を構えたにせよ、幕府の後ろ盾のない南朝が劣勢である現実は変わらない。1414年、南朝の忠臣である北畠満雅は反幕府軍を組織して挙兵したが、室町幕府によって討伐される。その2年後、降伏した後亀山上皇は京都に戻ってしまう。

 かくして、天皇家の争いも一段落かと思いきや、三度、問題が持ち上がる。後小松天皇を継いで即位した北朝の称光天皇だったが、子供がないまま1428年に死去。まだ存命だった後小松上皇が北朝の傍流、伏見宮家から次代の天皇を選ぶべきだと述べたことをきっかけに、南朝系の勢力は一斉に反発する。両党迭立の原則が守られていないことを指摘するとともに、称光天皇が死去した段階で皇統は断絶し、北朝の皇位継承権は喪失したと主張したのだ。

 一度は討伐された南朝の忠臣、北畠満雅は時が来たと判断し、南朝の小倉宮聖承を担ぎ上げて、伊勢で再び挙兵する。室町幕府と壮絶な戦いを開始するが、結果は、圧倒的な勢力を誇る幕府軍の前に、北畠満雅は戦死することとなる。

 南朝勢力を押さえ込んだ室町幕府は、後小松上皇の言葉通り、伏見宮家から皇太子を選び、後花園天皇として即位させることで、皇位継承問題に一応のケリをつけた。以後、天皇はすべて北朝の血統から輩出され、現代の今上天皇に至るというのが、今日の学者の一致した意見である。

 後花園天皇が即位した時点で、もはや南朝の時代は終わったかに見える。しかし、少し視点を変えると、厄介な問題が発生する。つまり、天皇の王権を裏付けるレガリア、すなわち三種の神器である。

 三種の神器のうち、八咫鏡は伊勢神宮の内宮に安置されている。当時、天皇家が宮中に保管していたのは、草薙剣とヤサカニノ勾玉の二つである。後亀山天皇が北朝側に差し出した三種の神器とは、基本的にこの二つである。

 さて、三種の神器を巡って、南朝復興を悲願とする後南朝の忠臣たちは、1443年、実力行使に打って出る。日野有光らが中心となり、京都御所に乱入。後花園天皇の暗殺を企てたのだ。「禁闕の変」である。

 天皇暗殺は未遂に終わったものの、日野氏らは三種の神器、すなわち草薙剣とヤサカニノ勾玉を奪取する。後亀山天皇の弟の孫に当たる通蔵主と金蔵主を担ぎ上げ、比叡山に逃れることに成功する。虚を突かれた幕府軍は直ちに日野氏らを討伐し、草薙剣を奪い返すことに成功するも、ヤサカニノ勾玉は南朝軍によって持ち去られてしまう。実は、これが大問題だった。つまり、草薙剣は壇ノ浦の合戦で安徳天皇が抱いたまま、入水したため、行方不明になったと考えられる人も少なくない。後に発見された草薙剣は偽物だというのだ。

 それだけではない。草薙剣はヤマトタケルが預けて以来、熱田神宮において祀られていたので、天皇が持っているはずがないともいう。いずれにせよ、後醍醐天皇が持っていた草薙剣は御霊を入れてはいても本物ではない。となれば、草薙剣だけを奪い返しても、ダメなのだ。ヤサカニノ勾玉こそ、天皇が保持し、皇位継承を裏付けるレガリアなのである。これは北朝にとっては大問題だった。

 1457年、取り潰された赤松氏の復興を目論む家臣、石見太郎らが後南朝に接近。南朝側に忠義を尽くすと見せかけて、小倉宮実仁親王の孫である自天王と忠義王を初め、後南朝の家臣たちを虐殺。ヤサカニノ勾玉を奪取することに成功する。一時、猛然と迫ってくる後南朝の軍勢に撃たれて神器は南朝の南天皇の手に戻るものの、再び逆転。南天皇は殺され、最終的にヤサカニノ勾玉は北朝の手に渡る。

 王権のシンボルである神器をすべてなくした時点で、後南朝の行方は見えていた。室町幕府の庇護の下、勢力を拡大する北朝とは裏腹に、後南朝の勢力は衰退の一途をたどり、歴史の表から徐々に姿を消していく。密かに続いていた皇統も、1471年に始まった応仁の乱の際、山名宗全が担ぎ上げた西陣南帝王が最後。こうして、後南朝の皇統は歴史の闇へと消えていくことになる。


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