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「竹内文書」の真相(9)

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(9)「竹内文書」への弾圧

 あまりにも衝撃的な内容だったゆえ、「竹内文書」はアカデミズムから偽書と断定された。のみならず、皇室に対して不敬であるとして、当局から弾圧を受けた。

 1936年、「竹内文書」を継承してきた皇祖皇太神宮の神職であった竹内巨麿は不敬罪容疑で逮捕され、かつ貴重な古文書類と宝物などを没収されてしまう。裁判は長期化し、ついには最高裁である大審院にまで持ち込まれる事態となった。

 幸いにして、最終的に証拠不十分で逆転無罪となったものの300点以上にものぼる古文書とご神宝は結審した後も返還されず、1945年3月10日の東京大空襲によって灰塵に帰してしまった。現在、皇祖皇太神宮に所蔵されているのは、わずかに差し押さえられを逃れたものであるという。

 裁判において焦点となったのは、「竹内文書」の内容に関する信憑性だった。京都帝国大文科大学の学長、狩野享吉教授は雑誌「世界」に論文「天津教文書」を発表し、「竹内文書」が偽書であることを論証しており、これが裁判でも採用された。天津教とは竹内巨麿が起こした新興宗教で、信者にとって「竹内文書」は聖典であり、資料は宝物であった。

 偽書と断定された大きな理由は、時代考証的にあり得ないというものである。書かれた当時は存在しなかった地名や用語、表現があるほか、明らかに言葉の使い方に誤謬が見られ、内容的に自己矛盾を呈しているというものだ。実際、「竹内文書」は誰が見ても時代的にはあり得ない地名がたくさん出てくる。正直言って、偽書とされるのも無理はない。

 最終的に裁判では無罪になったものの、判決としてはあくまでも嫌疑に関しては証拠不十分であり、「竹内文書」が偽書ではないと立証されたわけではない。アカデミズムの評価は依然、偽書である。偽書である以上、まともな歴史学者が研究対象とすることは、まずない。「竹内文書」は天津教の聖典として尊重はするが、歴史的な資料として扱うことはないというのが実情である。

 一連の「竹内文書」をめぐる論争を俯瞰して、大きな疑問が一つある。仮に「竹内文書」が竹内巨麿による偽造文書だったとしたら、何故、現代の地名を初め、歴史的誤謬を散りばめた文章を書き記したのだろうか?

 筆跡を見ると、ひとりで書いたものではないらしい。複数の人間が関与して作り上げたものだとすれば、なおさら、なぜ内容の自己矛盾に気づかなかったのか?

 これは「竹内文書」に限らず、ほとんどの古史古伝に関わる大きな謎である。

 考えられることは、確信犯である。わざと時代考証にそぐわない言葉や名称を使ったのだ。アカデミズムの学者から見れば、一目で偽書であるとわかるような内容にしたのである。

 なぜ、偽書という烙印を押されることを承知で「竹内文書」の作者は書いたのか? 

 そこには目的があったはずである。一つは焚書を避けることだったのではないか。実際に当局からの弾圧があったが、結果として全部ではないにしろ、「竹内文書」は残った。今日に至るまで文書として生残った。言葉が悪いが、内容が荒唐無稽だったがゆえに、逆に、それが「竹内文書」を守った。

 記紀の内容が絶対的に正しいとする皇国史観が当たり前だった時代にあって、アカデミズムから無視され続けたことにより、発禁本や焚書を免れたのではないだろうか。それこそ、作者の狙いだった。

 そうだとすれば、必要なのは解読である。現代の地名などは、ある種の目くらましであり、カムフラージュなのだ。当局の目をくらますための仕掛け、いうなればトリックを解明して、そこに隠された真実を読み取らねばならない。つまり、「竹内文書」は壮大な暗号書だったのである。事実、暗号を解く「鍵」をもってすれば、自ずと核となる本当の歴史が浮かび上がってくるのだ。


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