(25)藤原不比等が天照を女神に改ざんした!
(下つ巻・第7帖 藤原不比等が天照を女神に改ざんした)
「日月神示」の解き明かしを知れば、その嬉しさから近隣に行って知らせたくなるが、あまり過激になると、逆効果なので落ち着くことである。絶対神は信者が多く集まるので喜ぶような存在ではない。集まった者たちの質を重視される。だから、謎を解き明かしたものは、金儲けの宗教を自ら興し、その教祖になってはならない。三柱の神を拝するには、「三礼三拍手一礼」である。明治の国家神道が作り上げた「二礼二拍手一礼」ではない。「天津神」とは天照大神がいる高天原の神で、天孫族の祖とされている。その祝詞である「天津祝詞」は、神社に参拝した際、神主が奏上する祝詞で「祓祝詞」ともいわれる。
現代語訳でいうと次のようになる。
「高天原におられる、カムロギノミコトとカムロミノミコトのご教示によりまして、天皇の御親であらせられる伊邪那岐大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて、黄泉の国の穢れを禊祓った時に生まれた祓戸の大神たち、罪や穢れがありましたら、どうぞお祓いください、お清めてください。このお願いをすることを天津神、国津神、すべての神々様にどうぞお聞き届けくださいと恐れ多くもお願い申し上げます。」
これを唱えながら体を清めた時に様々な神が生まれたとある。左目を洗ったときに「天照大神」が、右目を洗ったときに「月読命」が、鼻を洗ったときに「須佐之男命」が生まれ、これを「三貴子」と呼ぶ。
(解釈資料)
「三貴子」は3人の男子のことを言う。貴子は男性を指す言葉で、天照大神が女性なら「子」ではなく「女」で「一貴子」ではなく、「一貴女、二貴子」と表現すべきである。記紀が編纂された時期を見ると、朝廷の権力を握っていたのは、藤原不比等だった。事実、「古事記」は712年に朝廷に献上され、「日本書紀」は720年に献上されているので、不比等の息がかかっている。不比等は中臣鎌足(藤原鎌足)の第2子とされている。不比等は、「大宝律令」を完成させ、708年には右大臣となって権力の段階を上り詰める。その後、長女・宮子を、第42代・文武天皇に嫁がせ、第45代・聖武天皇を産ませ、次女・光明子をその聖武天皇に嫁がせるという離れ業を行って、さらなる権力を掌握した。こうして不比等は第41代・持統天皇、第43代・元明天皇、第44代・天正天皇へと続く女帝の下で実権を握り続け、717年には名実ともに不比等政権を確立した。特に持統天皇の軟弱な政権基盤を強固にするために、女帝の下で統合される必要が出てきたとされ、そこで皇祖神である天照大神を男神から女神へと強制的に入れ替える策に出た。その策略は徹底しており、「伊勢神宮」の祭祀全般を受け持っていた禰宜に降格させ、代わって中臣氏系の荒木田氏を内宮の禰宜に任命している。さらに、「籠神社」から、豊受大神のご神体を運び出し、そこを「伊勢神宮」に鎮座させて外宮としたとされる。この頃から20年に一度ずつ社殿を立て直す「式年遷宮」も開始されている。不比等はある神命を受けていて記紀に仕掛けを行っていたのである。事実、記紀には真相を隠すよう仕組まれており、鍵を使えばバリヤーが外れるようになっている。最高神をたぶらかし、国史のを改ざんしたにしては、本筋のところで羽目を外していないのである。ただ、徹底してカモフラージュで隠されているだけである。また、秘密を明らかにできる仕掛けも残している以上、不比等を悪人として扱うのは間違いである。
間違いなく不比等について言えることは、イエス・キリストである天照大神を女神に変え、記紀に存在する「新・旧約聖書」を仕掛けで隠したのは、神道と皇室の基礎にイスラエルが関わることを、諸外国を含む国民の目から隠そうとしたからである。それは世界の至宝が日本に隠され「伊勢神宮」に封印されていることを異国に知られないためである。