(75)物部系神社はヤハウェ、秦氏系神社はイエス・キリスト
(天つ巻・第13帖 玉串は聖衣(ガーメント))
空の宇宙での変化は、地である地球にも影響があると考える方が正しいだろう。この世の終末は、先ず天にその兆しが現れる。天照大神であるイエス・キリスト(ヤハウェ)は、天の父である神に、少しでも善人を集めるため、時を先に延ばす交渉をしてきたが、必ず限界の時が来る。
神道の「玉串」は、天照大神(イエス・キリスト)に着て頂く聖衣(ガーメント)と同じである。その意味は人の体であり、神の子供たちの霊を覆うための神の創造物である。だから、究極の場合、自己犠牲からわが身を捧げる行為は、最上の犠牲となる。イエス・キリストの磔刑がそれで、その瞬間、イエス・キリストは過去に誕生した全人類と、未来に生まれる全人類の罪を一身に背負ったのである。
(解釈資料)
人は己一人の罪でさえ背負えないという。なのに全人類の罪を背負うとは、理解を超えて常軌を逸しており、たとえ成し得ても神でしか達成できるものではない。救世主(メシア)として逃れることが出来ない使命を帯びたイエス・キリストは、ゲッセマネの園で、全人類の罪業を一身に背負い、全身の毛孔から血が滴るように汗を流したという。
「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(「ルカによる福音書」第22章42~44節)
全人類の救済は、メシアとして誕生したヤハウェ、現人神のイエス・キリストしか達成できなかった。メシアに課せられた身代わりの生贄は、地球に住む人類だけではない。宇宙には無数の地球と同じ惑星があり、そこにもアダムとイブがいる。地球と似た惑星は我々の銀河だけでも数百億個存在するとされる。その銀河の数も7兆個存在するとされ、発見される銀河の数は年々増えている。
ヤハウェ(イエス・キリスト)は、他の人類の神でもある。つまり、メシアが身代わりに背負う人類の総数は、天文学的規模でさえ超えている。だから、イエス・キリストは神なのである。創造された順で言えば、優先順位は「霊」であり、次が「肉」である。それらが合体したものが生物であり、人類も同様だ。わかりやすく言うと、「物心」と言う。人は「心の霊」と「物質の肉」で出来ている。だから肉体は霊を覆う衣と言える。命をかけた究極の二者選択以外、物心ともに大切にせねばならない。この世的な人々は物質的な物事を愛する傾向にあり、宗教を信じる人々は霊的な物事を愛する傾向にある。しかし、どちらも過ぎたるに陥りやすく、下手をすると行き過ぎてバランスを崩してしまう。前者は拝金主義に陥り、後者は頭でっかちの宗教馬鹿になる。どちらも本末転倒で、物心両面の重要さに気づこうとしない。神が創造した霊と物質の両方を大切に思うことを言っている。
その点で言えば、日本の神道は、自然と調和した見事なほど美しいバランスが取れている。物部系の神社ではヤハウェを、秦氏系の神社ではイエス・キリストを感じ、両者が一体となって現人神を形成しているからである。