(72)唐傘お化けの片目はヤハウェの片目
(天つ巻・第7帖 日本の神の御仕組)
富士の山を形成する「三位三体」が、古代日本神話の神髄であり、「記紀」の冒頭で宣言する神道の基盤となる。三位三体が日本に知れ渡った時、日本は大きく変貌を遂げ、神が喜ぶ時代を招きよせるだろう。その時が来たら、なぜ国の根幹である国史が「古事記」「日本書紀」で一対なのか、物部神道と秦神道が一対なのか、「大嘗祭」で立てられる大嘗宮が「悠紀殿」と「主基殿」で一対なのかも分かるだろう。
案山子のように十字架に掛かったら何もできなくなる。それと同じように、日本全体が官僚主義に汚染され、融通が全く利かない状態が今である。その官僚主義が日本中から払拭されたとき、暗雲が晴れたことを神に祈って感謝せよ。
(解釈資料)
「古事記」と「日本書紀」の内容は微妙に違い、親子が逆転したり、神の名が違ったり、数字が違ったりする。だから、「日本書紀」は、一書に曰く、となるわけだが、一説では「日本書紀」が主で「古事記」が従であるという。「記紀」で記述が違う箇所ほど、「聖書」との共通点が隠されていることが多い。それを見つけやすくするために、故意に編纂時に工夫されたと思われる。例えば、乱暴者の須佐之男命が高天原に昇ってきて、それを迎え撃つ天照大神と対峙する箇所がある。そこを「古事記」では以下のように記す。
「ここに天照大御神、須佐之男命にのりたまはく、この語に生れし5柱の男子は、物実我が物によりて成りき。彼、自づから吾が子なり。先に生れし3柱の女子は、物実汝の物によりて成りき。かれ、すなわち汝の子なり」(「二神の誓約生み」より)
須佐之男命を信用できない天照に対し、須佐之男命は産んだ子供の数で競おうと提案するが、天照大神の5柱(男子のみ)に対し、須佐之男命は3柱(女子のみ)になったという話である。つまり、5対3で天照大神の勝利となる。これを聖書学的に言えば、「天井の大会議(大戦争)」で、イエス・キリストに賛同した霊(人の前世の状態)が三分の二で、ルシフェル(後の悪魔)について賛同した霊が三分の一とある。敗北したルシフェルとその霊たちは、地に落ちて地獄を形成し、悪霊となって人を惑わすようになる。
「ああ、お前は天から堕ちた 明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた もろもろの国を倒した者よ。かって、お前は心に思った。私は天に上り 王座を神の星よりも高く据え 神々の集う北の果ての山に座し 雲の頂に上って いと高き者のようになろうと。しかし、お前は陰府に落とされた 墓穴の底に。」(「イザヤ書」第14章12~15節)
その数を暗示する箇所が、滅亡と破壊と落下の数字に隠されている。
「第1の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、全ての青草も焼けてしまった。第2の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船と言う船の三分の一が壊された。第3の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川と言う川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦しくなって、そのために多くの人が死んだ。第4の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星と言う星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった」(「ヨハネの黙示録」第8章7~12節)
天照大神と須佐之男命で分け合った子供の数が、5対3ではなく、6対3であれば聖書と符合することになる。なぜなら、須佐之男命は、その後、約束を破って高天原で大暴れをし、天照大神の岩戸隠れが起き、その後、罰を受けて地に追放され、根の国(黄泉)の支配者になるからである。そこで「日本書紀」を読むと、「二神の誓約生み」の箇所を以下のように記している。
「その6柱の男神を取って、日神の子として高天原を治めさせた。日神が生まれた3柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に降らせられた。」(「素戔嗚尊の誓約」)
つまり、6対3で、「記紀」で記述が違う箇所が、聖書との一致点が明確になるように仕組まれている。これを「国仕掛け」と言う。
次に4大嘗祭の「悠紀殿・主基殿」だが、東西日本列島の激突について記述した「富士の巻」を参照してほしい。「案山子」も同様にしてほしい。エルサレムに行けば分かるが、原始キリスト教徒の墓石には決まって「Λ」の中心に「・」が刻んであり、三角形と目で唐傘お化けの特徴である。それだけではなく、一本足と一つ目の唐傘の図形もあり、十字架に掛けられた命の存在を具現化している。唐傘お化けの片目は「ヤハウェの片目」であり、あるいは平和の遣いの「鳩」として描かれている。