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カゴメ唄の謎(25)

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(25)聖徳太子の聖骸布

 物部氏の秘密組織「八咫烏」を整えたのは聖徳太子である。聖徳太子は70人の八咫烏、12人の大烏、そして3人の金鵄から成る組織を作り上げた。聖徳太子は聖者でありながらも、天皇ではなく皇太子だった。当時の天皇は推古天皇である。女性であるがゆえ、実際の政治は聖徳太子が行った。いわゆる摂政である。新たに組織された八咫烏にとって、聖徳太子は裏天皇と言うべき存在だった。

 聖徳太子亡き後は、金鵄が裏天皇を担うことになる。天皇の即位儀礼も、この頃から整備され、同じく女帝であった皇極天皇の御代に大嘗祭が行われるようになる。仕切ったのが八咫烏である。

 大嘗祭のベースには「天岩戸開き神話」がある。天照大神の死と再生はイエス・キリストの死と復活である。それを聖徳太子が認識していたことを示唆する伝説が「日本書紀」に記されている。

 一般には「片岡山伝説」として知られるエピソードである。紀元613年ごろ、聖徳太子が奈良の片岡山に遊行した際、道端で倒れている一人の男に出会った。見ると、体はやせ細っており、見るからに飢餓状態だった。哀れに思った聖徳太子は餓者に食事を分け与え、自らがまとっていた衣服を着せて、いたわりの言葉をかけた。次の日、男の事が気になった聖徳太子は使者を片岡山に遣わしたところ、既に亡くなったことを知る。嘆き悲しんだ聖徳太子は、これも何かの縁と考え、現場の近くに墓を造形し、そこを餓者の亡骸を埋葬させた。後日、ふと男の事が気になった聖徳太子は、再び使者を遣わして、墓の様子を見てくるように命じた。現地を調査した遣いが報告したところによれば、墓の様子がおかしい。墓が暴かれた気配はないのだが、念のため、扉を開けて棺の中を覗いてみると、何と遺体がない。代わりに聖徳太子が与えた衣服がたたんで棺の上に置かれていたという。これを聞いた聖徳太子は悟る。片岡山の餓者は只者ではない。きっと聖者だったに違いない。聖徳太子は棺の上の衣服を使者に持ってこさせると、再び身に着けた。伝え聞いた人々は不思議なことがあるものだと言って、口々に「聖者は聖者を知るというのは真実だった」と噂し、聖徳太子への崇敬を深めていったという。

 これは聖徳太子を聖人化させるために挿入された物語である。ベースにあるのは「新約聖書」である。イエス・キリストの死と復活が舞台設定を変えて描かれている。

 カッバーラで解釈すると、聖徳太子の衣服を着た時点で、餓者は同一人物である。死んだのは聖徳太子自身である。埋葬された聖徳太子は翌日、復活する。墓に遺体はなく。衣服がたたんで置いてあった。「聖者は聖者を知る」と言う世間の噂は、まさに両者は同一人物であることを暗示している。埋葬された墓に遺体が無く、衣服がたたんであったというエピソードは,まぎれも無くイエス・キリストの復活譚が背景にある。聖徳太子の衣服とはイエスの聖骸布に他ならない。これが大嘗祭に受け継がれていくのである。

 聖徳太子伝説の根底には、「新約聖書」がある。イエス・キリストの生涯、特に死と復活が反映されている。これは聖徳太子が預言者だったことを物語っている。絶対神ヤハウェ=イエス・キリストの神託を持って大嘗祭を整えた。実行部隊は八咫烏である。身を持って密儀を最初に行ったのは、聖徳太子だった。その証拠が「四天王寺縁起」に残る朱手形である。聖徳太子が自ら押したとされる手形の中央には穴がある。なぜ、穴が開いているのか? 手の中央が窪んでいたから、たまたま朱が紙に触れず白く抜けただけなのか? 実際に穴が開いていたのである。聖徳太子の両手には穴が開いていた。人為的に穴を開けたのである。モデルとされるのはイエス・キリストである。イエスは十字架に磔になった時、両手と重ねた両足首に釘を打ちつけられた。絵画では掌に釘が打たれた姿で描かれるが、現実的に言うと、これでは体の重さを支えることができない。そこで実際は、手首にある骨の隙間に打ちこんだのである。だからこそ、手首の部分をロープなどで固定し、釘そのものは、あくまでも掌に打ちこんだのである。しかし、「トリノの聖骸布」に浮かび上がった人物の手を見ると、流血と思われる痕跡は掌ではなく、手首に集中している。トリノの聖骸布が本物だとすれば、イエス・キリストは両手首に釘を打ちつけられたことになる。

 かって、大嘗祭では「釘打ち儀式」が行われていた。執行したのは忌部氏、鴨族である。彼らが実際に釘を使って、天皇の両手に穴をあけた使用される釘は、実際にイエス・キリストの両手を貫いた聖釘なのである。聖遺物の聖釘をもって、かって歴代天皇は両手に穴を開けた。この儀式は大嘗祭が途絶える南北朝時代まで続いた。「後醍醐天皇宸翰本縁起」における後醍醐天皇の朱手形が「四天王寺縁起」における聖徳太子の朱手形同様、真ん中に穴が開いているのはこのためである。

 表天皇の大嘗祭が途絶えて以降、釘打ちの儀式は裏天皇たる八咫烏の金鵄が継承し続けている。かって聖釘を掌に内から外まで一度、貫くように打たれたが、やがて儀式化され、所作をするだけに留めるようになった。明治以降、表天皇は両手を傷つけることなくあくまでも両手に聖釘を当てるだけに留めているという。


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