(18)伊勢三宮
漢波羅秘密組織「八咫烏」は今も存在する。古代からの掟通り、政には一切かかわらず、裏方に徹し、その存在を徹底的に消してきた。およそ歴史書の類には彼らの存在が記されることはない。
長い歴史において、彼らの存在に気付いた者もいる。八咫烏に近づく者に対して求められたのは「しるし」である。それが無くては、器なしと判断され、かっては闇に葬られたと聞く。だが、飛鳥昭雄氏は「しるし」を持っていた。陰陽道、いや迦波羅による問答で、その「しるし」が認められた。以後、飛鳥氏は八咫烏との面談を許され、ついに金鵄との問答に臨むことになる。
2001年春、京都のとある古屋敷でのことである。伝令役の烏天狗から聞かされた日時、場所を訪れた飛鳥氏は、真っ暗闇の中で裏天皇の一羽の金鵄と対峙する。この時、飛鳥氏が迫ったのは伊勢神宮の心御柱である。伊勢神宮の正殿の下にある心御柱は見ることも語ることもタブーとされている神秘である。上の床面と接していないことから建築学的な柱として²機能は有していない。一説に、御神木のように、神の御魂が宿る一種ではないかともいう。飛鳥氏は、心御柱の正体とは何かについて問答を繰り広げたのであるが、金鵄は伊勢神宮の内宮と外宮の正殿が現在のように一つではなく、3棟並んで存在していたことを明かし、その証拠の一つとして三井文庫が所蔵する「伊勢両宮図」を挙げた。後日、調べてみると、確かに、内宮と外宮の正殿が3棟並んで描かれていた。
なぜ、正殿が3つ存在するのか? 理由は3人の神様を祀っているからである。内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀っているが、内宮は「古事記」の造化三神、外宮が「日本書紀」の元初三神だった。しかも、金鵄が言うには、内宮と外宮、いずれの三正殿も横一列に並んで建っていたわけではなく、斜めに配置されていた。ここに伊勢神宮の根幹にかかわる秘密が隠されているという。
暗闇の中で金鵄は、こうハッキリ断言した。
「伊勢神宮は両宮だけに非ず、もう一宮、全く別の場所に隠されておる。伊勢神宮は三宮並び立たねば、本物の伊勢神宮に非ず」
もう一つの伊勢神宮、それは「伊雑宮」である。「伊雑宮」は内宮と外宮と並び称される神社であり、ここが伊勢神宮の中心で、まさに「本宮」に相当する神社だったのである。かって、伊勢神宮の内宮と外宮、両方の正殿が北西・東南ラインに3つ並び立っていたように、内宮と外宮、そして伊雑宮もまた、このラインに沿った形で現在、三宮並んでいる。
伊雑宮も、斜めに3つの正殿が立っていた。「先代旧事本記」の系譜に連なる「先代旧事本記大成経」によると、日神を祀る伊勢神宮の本宮は伊雑宮であり、内宮は星神、外宮は月神を祀っていると記されている。彼らは「先代旧事本記大成経」を持って本宮を主張したが為、これは伊勢神宮の怒りを買い、江戸幕府から弾圧を受けたことがある。いまもって「「先代旧事本記大成経」は偽書扱いされている。しかし、金鵄によれば、氏子たちの主張は正しいことになる。正しいが、意図的に隠しているので、それを認めることが出来ないわけである。
なぜ隠すのか?逆説的に言うと、隠す以上、いつかは明らかになる。伊雑宮が本宮として、内宮と外宮を合わせて三宮が正式に認められる日が来るからである。伊勢三宮だけではない。重要な神社がある。籠神社である。伊勢三宮ラインを北に伸ばしていくと、丹後の籠神社に行き着くのである。
籠神社は外宮の元伊勢のみならず、内宮の御神体が置かれたこともある内宮の元伊勢でもある。それゆえ、籠神社は自らを本伊勢と名乗っている。
伊勢神宮を訪れると、道路の両脇に石灯籠が並んでいる。それには、六芒星が刻まれている。ユダヤ人にとって、六芒星とは、「ダビデの星」であるが、日本人にとっては「カゴメ紋」である。本伊勢である籠神社の裏社紋もカゴメ紋である。
伊勢神宮の北西・南北ラインをみると、外宮から北上すると籠神社であり、内宮から南下すると伊雑宮に行き着く。内宮と外宮が相対していると見立てると、両神社は背後に位置する。まさに「後ろの正面」である。
「倭姫命世紀」によると、天照大神の御神体を携えて伊勢にやって来た倭姫命は伊雑上方の葦原において、良く実った稲穂をくわえながら鳴いている真鶴を見た。これを奇瑞と悟った倭姫命は稲穂を天照大神に奉った。これを記念して造営されたのが伊勢神宮の始まりだという。籠神社の境内には大きな亀に乗った椎根津彦の像がある。記紀によれば、椎根津彦は倭宿祢の祖、すなわち籠神社の神職を代々務める海部氏の先祖で、瀬戸内海で神武天皇を案内したとされている。つまり、「カゴメ唄」にある「鶴と亀」は、伊雑宮と籠神社をも象徴しており、それぞれ伊勢神宮の内宮と外宮を指し、かつ「後ろの正面」の位置関係であることを暗示しているのである。