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プラズマ宇宙論(31)

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(31)古代中国に残された謎の天体記録

 古代中国では、天空と大地が一体のものとして視覚化されていた。天空と大地は、巨大な馬車を作り上げており、馬車の平らな台の上に柱があり、その上に天蓋を表す青い幌が載るという姿として描かれていた。このような天空と大地が一体化した理念は、天空の出来事が、そのまま下界の人間や国家の運命を左右することを意味していた。

 古代中国人の概念に、大気圏内と大気圏外の区別はなく、空で起こる現象はまとめて天空の出来事だった。その天空の区別と言えば2つしかなく、1つは北極星の周囲を巡る周極星の運行の様に、規則性で予測できる分野、もう1つは太陽の黒点の様に、予測できない分野である。今でも台湾や中国本土でも見られるが、太陽を観測するときは、桶に入れた墨を映して観測していた。予測できない天空の出来事は、古代中国にとって、非常に重要な意味と解釈され、そういう出来事は国や皇帝の運命を左右すると信じられていたため、徹底的に観測されていたのである。そのため、ハレー彗星の周期を計算する時も、紀元前240年の秦が残した彗星の記録が非常に役に立ったと言われている。

 しかし、数ある古代中国の天空記録の中で、中国人が最も関心を示したことは、不吉の前兆を示す天体の出現だった。「新しい星」と「未知なる星」の記録は、現代の天文学者たちにとって宝の山となるが、アカデミズムはすべて彗星か超新星の出現としか見ていないのが残念である。これは斉一理論独特の思い込みが生み出す不幸であり、人類全般への重大な情報を破壊する行為ともいえる。

 古代中国の天体記録がいかに重要かを示す典型的な例が、「三国志」の記録に出てくる謎の真っ赤な星の記述である。紀元前234年、邪馬台国の卑弥呼が魏に遣いを送った5年前、蜀の軍師・諸葛孔明が、五丈原の陣で病死した。その時、天空には「孔明の星」の輝きをくすませるほど真っ赤な光を放射する天体があった。不世出の軍師だった孔明は、太古からの天文の知識を保持した占星術師でもあった。その彼が、彗星とは思わなかった天体が、五丈原の戦いのときに出現したのである。しかし、アカデミズムは、この時の星も、火星か彗星だと決めつけている。当時の中国でも、火星や彗星は不吉の前兆と思われていたが、火星は古代中国でも既に観測されていたし、彗星も同様で、古代中国では決して珍しい現象ではなかった。五丈原の戦いの頃に出現した謎の天体は、真っ赤に輝いており、他の星を圧倒していたとも記録されている以上、ただの彗星ではない。だからこそ、孔明は、自分の星と定めていた星を、その星の輝きがかき消してしまったと嘆いたとも伝えられている。天文学にも通じていた孔明が、その星を火星や彗星と言っていない以上、それは他の天体である。

 孔明をして驚かせるほどの天体とは、真っ赤な色からしても、軌道周期の関係で再び出現したベツレヘムの星,すなわち奇しき赤星だったのかもしれない。その後、謎の巨大天体は姿を見せなくなり、やがて人々の記憶からも消えていった。

 金星は既に紀元前8世紀には、明けの明星として安定したことが、古代記録の中で明らかにされている。そのため、イエス・キリスト誕生の時代に、再度金星が軌道を変えて最接近したとは考えられない。また、木星から新しい天体が誕生した記録は見当たらない。では、新しい惑星ではないとしたら、この時の赤星の正体は何だったのだろうか? 答えは一つしかない。それは巨大彗星メノラーよりも500年前に誕生した、惑星ヤハウェが再び真っ赤な姿を見せたということである。

 惑星ヤハウェの軌道は、ニムロドが築いたバベルの塔を破壊した後、一時は長楕円軌道を描いて太陽系内から遠く去って行ったが、その2200年後に再び太陽系に戻ってきた時、木星か土星の重力の影響を受けて一挙に円軌道へと移行したと思われる。4500年前誕生した時は、木星と火星の間にあった惑星フェイトンを破壊し、火星を死の星の変え、地球に大洪水と大地殻変動をもたらし、太陽系の惑星群全てに破壊的な影響を与えた惑星ヤハウェが、再び独自の軌道を取りつつあった途上、約束の赤星として再びその姿を現したのである。その意味ではまさしくヘブライ民族にとっての絶対神ヤハウェだったのである。


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