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邪馬台国と卑弥呼の謎(15)

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(15)藤原不比等の陰謀 

 神道の神話が記されているのは「古事記」と「日本書紀」である。どちらも第40代・天武天皇の勅命により編纂された。「古事記」は稗田阿礼が各豪族の伝承を暗記し、それをもとに太安万侶が執筆し、712年に完成した。「日本書紀」は舎人親王によって編纂され、720年に完成した。いずれも、それぞれ第43代・元明天皇と第44代・元正天皇へと奏上された。注目したいのは記紀を手にしたのは、いずれも女帝だということである。しかも、勅命を出したのは天武天皇だが、記紀編纂のプロデュースは皇后にして女帝、第41代・持統天皇である。

 本来、天武天皇の次は草壁皇子が天皇に即位するはずだったが、若くして夭折した為に、皇后である持統天皇が即位する。持統天皇は自らの血を引く軽皇子に譲位して、第42代・文武天皇が誕生する。不幸なことに、文武天皇も若くして亡くなり、やむなく母親が即位して元明天皇となる。元明天皇は娘に譲位し、元正天皇が即位し、元正天皇は元明天皇直系の首皇子へ譲位し、第45代・聖武天皇が誕生する。

 この時代、実権を握っていたのは、みな女帝である。記紀編纂において、女帝の意向が反映されていてもおかしくはない。神道の最高神である天照大神が女神であるのは、女帝がモデルとされているという説がある。具体的に、持統天皇が天照大神を女神として創作したのではないか。天照大神は持統天皇の事だと指摘する学者もいる。また、天照大神は地上の支配に当たり、息子のオシホミミ命ではなく、その孫のニニギ命を降臨させている。これは持統天皇が孫の文武天皇への譲位が反映されていると推測できる。同様に、元正天皇と言う中継ぎをしながらも、孫の聖武天皇に譲位させた元明天皇にも言える。支配権を女帝から孫に譲る前例として天孫降臨が創作された可能性が高い。

 ただし、こうした壮大な絵を描いたのは持統天皇ではない。天武天皇から聖武天皇に至るまで女帝の時代を演出し、陰で政治を動かしてきた男がいる。藤原不比等である。左大臣まで登りつめた不比等は類い稀なる才能を発揮し、大和朝廷を支配したばかりか、その正当性を権威づけるために、記紀神話を創作したのである。豪族の伝承を巧みに取り入れながら、最終的に女性が君臨する神話体系を築いたのである。おそらく、この時代、まだ卑弥呼の存在が知られていたはずである。邪馬台国には女王が存在したことを意識しながら、そこに奈良時代の女帝を上書きする形で天照大神が創造されたのである。天照大神が皇祖神として位置づけられるのは、そこに女帝が投影されているからである。

 藤原不比等は記紀編纂に当たり、石上神社や大神神社、籠神社などに伝わる古文書や系譜を悉く没収している。特に物部氏の伝承を歴史的に抹殺している。その理由は、天照大神にある。藤原不比等にとって、天照大神は女神でなければならなかった。女帝を正当化するために神道の最高神は女性でなくてはならない。女神=天照大神を創造するにあたり、物部氏の伝承は邪魔だった。卑弥呼を生んだ海部氏の極秘伝は闇に葬る必要があったのである。

 本当の天照大神は女神ではなく男神なのである。物部氏が伝える天照大神は男神なのである。天照大神の名前は「天照国照彦天明櫛ミカ玉ニギハヤヒ尊」という。「天火明」は海部氏の祖神「天火明命」であり、「ニギハヤヒ尊」は物部氏の祖である。籠神社の極秘伝によれば、豊受大神と天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ尊は同一神であるという。

 卑弥呼と台与はいずれも天照大神に仕えるシャ-マンであり、海部氏や物部氏の祖である天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ尊の巫女なのである。

卑弥呼=日女命=天照大神の巫女

台与=日女命=豊受大神の巫女

 伊勢神宮の内宮と外宮もしかり。本来は天照国照彦天火明櫛ミカ玉ニギハヤヒ尊であり、陰と陽に分け、二人の神として祀っているのである。では、なぜ、同じ神を分けて祀る必要があったのか? その謎を解くカギは「秦」である。


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