(10)徐福伝説
秦始皇帝の出自に関して、果たして呂不韋(りょふい)の子供であったかは異論もある。秦帝国が滅び漢王朝が成立した時、先の王朝を蔑むのは歴史の常であり、世間的に評価を貶める目的で不義の子とされたのかもしれない。そうだとしても、秦始皇帝はイスラエル系だった可能性が高い。そもそも秦国の人々は漢民族と思われていなかった。春秋・戦国時代、まだ漢帝国が成立していなかったころ、漢民族は自らを「夏」と称した。伝説の夏王朝の末裔だという意味だが、秦国の人間は夏人とはみなされていなかった。夏人は農耕民だが、秦人は遊牧民であり、風俗風習が異なっていた。秦人は最も西に位置し、西域と接していたことを考えると、ルーツは西アジアにあった可能性が高い。
「秦」という字は、「秦=チン」で、中国の代名詞となり、今日の「チャイナ」として知られるようになった。もともと、「秦人」は漢民族ではなく、むしろ柵外の人と言う意味だった。中国では「秦」と名乗った国は春夏・戦国時代の秦国及び秦始皇帝の秦帝国以後も、前秦や西秦、後秦とあるが、いずれも王族は羌族そして鮮卑族で、漢民族ではない。中国が他国の異民族を呼ぶ時も、やはり「秦」なる文字が使われた。つまり、「秦」とは古代イスラエル人の代名詞だったのである。
秦始皇帝とイスラエルの関係で注目すべきは、アケメネス朝ペルシャである。アケメネス朝ペルシャと秦帝国の支配体制は一致する。つまり、秦帝国はアケメネス朝ペルシャの政治体制を踏襲したのである。アケメネス朝ペルシャの文化を持ち込んだのがユダヤ人である。南朝ユダ王国は、紀元前586年に新バビロニア王国によって滅び、民は首都バビロンへ連行された。世にいうバビロン捕囚である。バビロン捕囚は50年続いたが、アケメネス朝ペルシャによって新バビロニア王国が滅ぶと、イスラエル人はパレスチナ地方へ帰還する。彼らは再び南朝ユダ王国を復興し、ユダヤ人と呼ばれるようになる。しかし、この時バビロンに残った連中もいた。彼らは東ユダヤ人と呼ばれ、アケメネス朝ペルシャの民となる。この東ユダヤ人が中国へと流れてきたらしい。アケメネス朝ペルシャがアレキサンダー大王率いるマケドニアに滅ぼされると、東ユダヤ人たちは戦乱を避けて中国へ流入してきた。彼らはやがて秦始皇帝の配下となる。よって、秦国の王家はイスラエル系だった。史上初の統一国家を成し遂げた人々も東ユダヤ人の流れを汲む人々だった。
日本に渡来してきた秦氏は、秦帝国にいた失われたイスラエル10支族や東ユダヤ人の末裔だった可能性がある。事実、「義楚六帖(ぎそろくじょう)」と言う書物には、日本の秦氏は「徐福」の子孫だと記されている。徐福とは、道教の方士で、言葉巧みに秦始皇帝に接近し、不老不死の仙薬を献上するという大義によって、莫大な資金と人材を手に入れると、伝説の三神山へと向かった。三神山は東海に浮かぶ3つの島から成り、それぞれ蓬莱(ほうらい)山、方丈(ほうじょう)山、瀛州(えいしゅう)山と呼ばれる。そこには不老不死の仙薬があると信じられていた。
徐福が目指した三神山はどこにあるのか? 逆転列島倭地理観からすれば、今より日本列島は中国大陸に近かった。徐福が渡来したのは日本だとみなすことが自然である。実際、九州や丹後、東海、富士山そして青森まで全国各地に徐福伝説がある。ちょうど秦始皇帝が中国を統一した頃、日本では弥生文化が始まる。稲作が盛んになり、使用される土器も変化がみられる。弥生文化がもたらしたのは大陸からの渡来人である。彼等こそ、徐福集団だった可能性が高い。
徐福は斉と言う国の出身であったが、系図を見ると、秦始皇帝と同族で、「嬴(えい)」と言う姓をもち、共に祖先は東ユダヤ人の流れを汲む可能性があり、同じことは徐福にも言える。さらに、徐福が率いてきた数千人の童男童女と技術者たちにもイスラエル系が含まれていたと考えられる。
琉球民族や熊襲、隼人の先住民系弥生人に対して、徐福集団は大陸からやってきた渡来系弥生人であり、彼らが稲作を中心とする弥生文化をもたらした。狩猟採集の時代より、食糧が豊かになったこともあり、やがてクニが生まれ倭国が成立する。その背景に古代イスラエルの存在があった。