(9)弥生人と琉球・熊襲
有史以前に日本列島にイスラエル人がやってきていた。縄文人であるアイヌがイスラエル系ならば、弥生人はどうなのだろうか? 一般に縄文人は体毛が濃く、顔は彫が深く、二重まぶたが多い。これに対して、弥生人は体毛が薄く、顔の彫は浅く、一重まぶたが多いと言われている。だが、弥生人には2系統ある。一つは琉球民族や九州の熊襲や隼人に代表される先住民族で、もう一つは大陸からの渡来人である。弥生人の典型として描かれるのは、大陸からの渡来人である。卑弥呼に至っては、きりりとした一重まぶたの鋭い目をした能面の表情で、すらりとした細身のシャーマンとして想像図は描かれる。だが、マクモニーグルの透視では、大陸系と言うより、南方系の丸顔で、二重まぶたの大きな目が印象的であり、少し厚い唇を見ると、南方系のイメージが強い。これは明らかに琉球民族や熊襲、隼人の特徴である。マクモニーグルは多くの血が混じっていることを指摘した。つまり、二つの弥生人の系統を受け継いでいるのである。(南方系と大陸系のハーフだった) マクモニーグルは卑弥呼を生んだヤマト族も畿内に来る以前は山口県や福岡県、奄美大島にも住んでいたというから、容貌は南方系であり、その文化の影響を受けていたはずである。
卑弥呼の出身部族であるヤマト族は奄美大島にいた。奄美大島は琉球文化圏であり、沖縄には今も、琉球民族が住んでいる。琉球民族とアイヌの神話伝説や風俗風習は非常に似ている。アイヌも海洋民族であり、かっては琉球民族と同様に入れ墨の習慣があり、「魏志倭人伝」に描かれた倭人の特徴でもある。
琉球民族や熊襲、隼人もまた、そのルーツはイスラエルにある。古代沖縄文化には謎が多いが、不思議な遺物が両者のつながりを証明している。解読不能な文字や絵が刻まれた「沖縄ロゼッタ・ストーン」である。現在12枚ほど確認されているが、いずれも表面に線刻画が多数描かれている。ただ、よく見ると、この沖縄ロゼッタ・ストーンにはピラミッドらしき絵が描かれている。石垣島に伝わる来訪神の奇祭「マユンガナシ」は「マヤノカミ」と言う意味だというので、古代マヤ文明のピラミッドを表している可能性が高い。アビグドール・シャハン博士は、アステカ民族はイスラエル系だと指摘するが、マヤ民族も同族である。
最新の研究によれば、ユト・アステカ語はセム語系であることが判明しているセム語とは中東で使われている言語で、アラビア語やフェニキア語のほか、ヘブライ語が知られる。ヘブライ語はイスラエル人の言語であり、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」に使用されている。改めて沖縄ロゼッタ・ストーンを見ると、そこに古代ヘブライ語が存在する。説明は省略するが、琉球民族の流れを卑弥呼がくんでいるならば、彼女もまたイスラエル系だった可能性が高い。卑弥呼は南方系の琉球民族の血を引いているが、ヤマト族の血も引いている。つまり、卑弥呼は大陸からの系統も引き継いでいることになる。
三国志の「魏志韓伝」には次のような記されている。かって朝鮮半島には馬韓(ばかん)と言う国があり、そこへ北方から風俗風症の違う民族「秦人」が流入してきた。彼らは柵外の民で「秦の役」から逃げてきたという。「秦の役」を秦始皇帝が主導したと見るか、万里の長城に代表される苦役と見るかについては意見が分かれるが、いずれにせよ、秦帝国を強く意識している。馬韓の人々は秦人を忌み嫌ったが、あまりの数ゆえ、朝鮮半島の東半分を割いて与えた。こうして建国されたのが「秦韓(しんかん)」と「弁韓(べんかん)」であり、後にこれらは「新羅」と「伽耶」へと成長する。それゆえ、秦氏の中には秦始皇帝が治めた秦帝国の住民の末裔がいた可能性は否定できない。
では秦始皇帝は何者なのか? 歴史家である司馬遷は秦始皇帝は子楚(しそ)の子供ではなく、本当の父親は呂不韋(りょふい)だと伝える。呂不韋の愛人を子楚の妃として、生まれたのが政(せい)、後の秦始皇帝である。呂不韋は漢民族ではない。遊牧民である「羌族(きょうぞく)」出身である。現代イスラエルの調査機関「アミシャーブ」の研究により、この羌族は失われたイスラエル10支族であることが分かっている。それゆえ、秦始皇帝が呂不韋の子供であれば、彼はイスラエル人だったことになる。
失われたイスラエル10支族については、以前にも書いているが、預言者アブラハムの孫ヤコブは別名イスラエルと言い、その12人の息子から12支族が生まれる。彼らはエジプトに寄留するが、モーセによって、エジプトを脱出し、パレスチナ地方に古代イスラエル王国を築く。初代がサウルであり、ダビデ、ソロモンと続き、絶頂期を迎える。ソロモンの息子レハベアムの時代に2つに分裂する。10支族から成る北朝イスラエル王国と2支族から成る南朝ユダ王国である。このうち、北朝イスラエル王国は紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、民はメソポタミア地方に捕囚され、その後歴史から忽然と姿を消す。後世の歴史家は彼らを「失われたイスラエル10支族」と呼ぶ。状況から失われたイスラエル10支族は北方もしくは東方に離散した。アジア全域に彼らは広がり、一つが羌族になった。秦始皇帝が呂不韋の息子、すなわち羌族の血を引いているならば、その末裔を称する秦氏もイスラエル人だった可能性が出てくる。呂不韋の日本語読み「ろふい」がヘブライ語の「癒し手」の意味であることは呂不韋がイスラエル人だったことを意味する。