(7)邪馬台国の歴史復元と騎馬民族征服王朝論
紀元2世紀ごろ、倭国が乱れた。この時、九州北部に勢力を誇っていた物部氏が畿内へと集団移動した。彼らは九州における地名をそっくり畿内へと持ち込み、物部王国を築く。物部氏の王家はヤマト族であり、三輪山のふもとにある盆地をヤマトと名付ける。これが邪馬台国の元になる。しかし、国内は混乱したままである。フォッサマグナから向こうの東日本列島には狗奴国と言う倭人のクニがあった。邪馬台国の支配層は、一計を案じた。第2の勢力を誇る投馬国を抱き込もう。それには投馬国の人間で霊能力のある卑弥呼を女王として迎えるのが得策であると考えた。卑弥呼は神道祭祀をつかさどる海部氏である。海部氏の巫女が王となれば、倭国における物部氏達は必然と従わざるを得ない。こうして、現在の山口県下関市出身の卑弥呼は邪馬台国の女王として推戴され、都のある大和へとやってきた。彼女は宇陀・鳥見山に居城を構え、三輪山で霊的な儀式を行った。三輪山の山麓には都が広がり、大いに栄えた。
中国では戦乱が続き、三国時代を制した魏が覇権を握ると、卑弥呼は魏に遣いを送った。朝貢してくる民を厚遇するのが皇帝の器量の見せどころであり、魏王は膨大な量の宝物を贈る。中でも重要な印が「金印」だった。「新魏倭王」と刻まれた金印を手にした卑弥呼は中国皇帝に承認された女王として、その権威を発揮した。しかし、絶大なカリスマを誇る卑弥呼が死ぬと、邪馬台国は再び混乱する。男が王位に即位しても民が納得しない。やむなく卑弥呼と同族の台与が女王として推戴され、これによって再び平和が訪れた。中国の史書では、台与が西晋の皇帝に遣いを派遣したことを最後に、邪馬台国に関する記述は途絶える。
次に日本に関する情報は、大和朝廷が成立した5世紀である。いったい4世紀に何が起こったのか、中国の歴史書からは追えないのである。ゆえに謎の4世紀とも呼ばれるのだが、籠(この)神社には極秘伝として保持されてきた。
西日本連投の倭国を政治的に支配したのは邪馬台国であっても、宗教的に支配してきたのは、投馬国である。卑弥呼と台与は投馬国、後の丹波王国の海部氏の血を引くシャーマンだった。籠神社の極秘伝によれば、投馬国が一気に台頭し、圧倒的な水軍力によって紀伊半島を支配し、伊勢国や志摩国、熊野国に至るまですべて物部氏が抑えてしまう。倭国連合の宗主国と言うべき邪馬台国は投馬国に囲まれる形になり、勢力は逆転する。
これを飛鳥氏が整理すると、物部氏のヤマト族が作った国=邪馬台国は、投馬国の海部氏であり、かつヤマト族でもある卑弥呼と台与が女王として君臨し、当時「倭」国=「ワ」国と呼ばれていたクニは、やがて「ヤマト」国=「倭」国になった。だが、卑弥呼と台与が亡くなり、投馬国が邪馬台国を併合すると、「大きなヤマト」国と言う意味で「大邪馬台」国となった。同時に対外的にも「大きなヤマト」国=「大倭」国と称するようになった。かくして「倭」が「和」と表記されるにおよび、「大邪馬台国」=「大倭国」=「大和国」と呼ばれるようになった。この大邪馬台国こそ、前期大和朝廷である。投馬国と合体した邪馬台国が中央集権国家を作る段階に入ったことを意味する。しかし、ここで再び事件が起きる。
316年に、西晋が滅ぶと、中原に遊牧民を中心とする非漢民族が流入し、五胡十六国時代へ突入する。多くの民族が入れ乱れ、騎馬民族の一部は朝鮮半島を経由し、その南端まで侵入してくる。江上波夫教授は4世紀、朝鮮半島から大量の騎馬民族が海を越えて九州へ上陸、そこから畿内へと勢力を拡大し、大和朝廷を樹立したと主張した。いわゆる「騎馬民族征服王朝論」である。江上教授は騎馬民族の大王こそのちの古代天皇だと指摘する。江上教授はその天皇は崇神天皇だと主張するが、歴史学者の井上光貞氏は朝鮮半島から渡来してきたのは崇神天皇ではなく応神天皇だと考える。(飛鳥氏も応神天皇説を採用している)
征服者が被征服民を懐柔するには、王家同士が婚姻関係を結べばよい。それで大邪馬台国の王家の娘と結婚し、王家同士が親戚になれば、うまく治まるという寸法である。渡来人の大王である応神天皇が大邪馬台国の王家(海部氏)に入り婿することで大和朝廷が成立したのである。
籠神社の極秘伝には、「多次元同時存在の法則」がある。この法則を使えば、名前が違っていてもすべて同一神に収斂することになる。つまり、天照大神に収斂されるのである。また、神という文字を諡号にもつ天皇はすべて同一人物である。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、神宮皇后すべて同一人物である。
応神天皇の出身地は九州である。彼を主祭神とする神社が多く存在する。中でも有名なのは八幡神社である。八幡信仰のルーツは九州で、その総本山は大分の宇佐八幡宮である。宇佐八幡宮には元宮がいくつかあり、いずれも地元も豪族である辛嶋氏が奉齋していた。本来、八幡大神を祀っていたのは辛嶋氏なのである。実はこの辛嶋氏は渡来人なのである。朝鮮半島から渡ってきた「秦氏」の一派なのである。今日、日本文化と称するものは秦氏が築いたと言って過言ではない。4世紀、突然、古墳が巨大化したのも、秦氏が持つ大陸の高度な土木技術によるものである。「八幡」=「ヤハダ」なのであり、「ヤハダ」こそ、古代日本の謎を解く重要な鍵となる。「ヤハダ」はヘブライ語なのである。正式な発音は、「イエフダー」、すなわち「ユダヤ」と言う意味である。八幡神、すなわちユダヤ神を奉じる秦氏の正体は、ユダヤ人なのである。
秦氏は応神天皇と共に、日本に渡来してきた。応神天皇は秦氏の大王なのである。したがって、応神天皇こそ、事実上の初代天皇なのである。この国は創建当時からユダヤ王朝なのである。しかもユダヤ人である応神天皇が婿入りした海部氏もまた、同じ血統に属する民族なのである。