(4)卑弥呼の宮殿「鳥見山」の謎
邪馬台国は畿内にあったことは間違いない。卑弥呼は季節によって居城を変えていた。夏の居城は大和だが、冬の居城は山口県下関市にある豊田湖湖畔である。ここを拠点として、最初の透視結果にあった長門にも行き来していたのだろう。なぜ、冬の居城が長州にあるのか?その理由は、卑弥呼の出身地が山口県だったことに由来する。卑弥呼は長州出身だったが、女王として倭国を統治するにあたって、畿内にまでやってきたのである。寒くなると、冬の居城に移り、ある時、ここで病に倒れた。彼女の遺体を埋葬した場所が豊田湖湖畔にある。現在は、安徳天皇の陵墓参考地に比定されている。安徳天皇は源平合戦の壇ノ浦の戦いで、入水自殺したことで知られているように、鎌倉時代の人物である。ところが、豊田湖湖畔にある陵墓参考地は前方後円墳なのである。明らかに時代が合わない。前方後円墳が作られるようになったのは、卑弥呼の時代からである。したがって、マクモニーグルの透視にあるように、この安徳天皇の陵墓参考地こそ、卑弥呼の墓である可能性が高い。
邪馬台国=畿内説では、卑弥呼の墓を纏向にある箸墓古墳と見る。しかし、マクモニーグルが内部を透視して、「ここに卑弥呼は埋葬されていない」と指摘している。「女王ではなく、複数の男性が眠っている」と述べている。これに関しては、今後の調査を見守る必要がある。
最初にマクモニーグルが卑弥呼の墓を透視したのは、大和の馬見丘陵公園にある巣山古墳だった。これは、飛鳥氏によれば、卑弥呼ではなく、台与の陵墓の可能性が高いとしている。同族の二人の女性シャーマンを混同したのかもしれない。
マクモニーグルと言えども透視の的中率は100%ではない。時には、地図が表裏逆転したり、同じ性質のターゲットに引きづられることもあるせいか、後に、透視結果を修正するケースもあるという。
マクモニーグルが描いた地図は、明らかに奈良県桜井市の鳥見山が夏の居城とされたのだが、実際は、宇陀市の鳥見山であることが判明する。現地を歩いたマクモニーグルが宇陀・鳥見山こそ、透視で見た光景に一致すると断言した。そうなると、桜井・鳥見山は何だったのか? 桜井・鳥見山は現在「等弥神社(とみじんじゃ)」の境内にあり、山腹には神武天皇が皇祖天神を祀った「霊畤(まつりのにわ)」がある。マクモニーグルは、ここが古い祭祀場であることを指摘している。霊畤は古い祭祀遺跡が重層的に存在し、当然ながら卑弥呼も訪れて儀式を行っていたと語る。つまり、卑弥呼ゆかりの聖地だと言える。
だが、驚くべきことに、大和地方にはもう一つの鳥居山があるのである。第3の鳥見山は桃尾山と呼ばれ、別名を大国見山と言う。奈良県天理市滝本にある鳥見山は、古代豪族の物部氏ゆかりの石上(いそのかみ)神社の元宮があった場所とされ、伝説によると、祖神ニギハヤヒ命が降臨した山であるという。
なぜ、鳥見山が奈良県に3つも存在するのか? この3つの鳥見山の山頂を線で結ぶと、ほぼ二等辺三角形になる。桜井・鳥見山に霊畤があるように、宇陀・鳥見山にも霊畤がある。天理・鳥見山にはニギハヤヒ命が降臨した伝説がある。ニギハヤヒ命の妹が嫁いだのは「長髄彦(ながすねひこ)」である。長髄彦は「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」ともいい、「登美」とは地名で「鳥見」の事だとされている。又「鳥見=トミ」は転訛して「トビ」に通じるとされ、これに「鳶」を当て、「金鵄」に結びつける説もある。「金鵄」は金色の烏であり、三本足の烏で、日本においては「八咫烏」と呼ばれる。記紀神話によると、熊野山中で迷った神武天皇を助けて、先導したのが八咫烏だと言われている。つまりは、鳥見山とは、八咫烏山の事である。八咫烏の脚が三本であるように、鳥見山も3つあり、互いに二等辺三角形を成している。
邪馬台国があった大和地方には烏に関する伝説がいくつかある。三輪山は、それ自体が御神体とされる。麓にある大神神社は拝殿のみで本殿が無い。あくまでも三輪山が本殿なのである。邪馬台国の中心とされる纏向遺跡は、三輪山の山麓に広がる。マクモニーグルと飛鳥氏が大神神社を訪れたとき、マクモニーグルは「山頂で卑弥呼が儀式を行っている姿が見える」と言っていたという。邪馬台国の中心である纏向を眼下に見下ろす三輪山で卑弥呼は天の神に対する霊的儀式を行っていたのである。
大神神社の鳥居は、3つの鳥居が合体した「三つ鳥居」が御神体である三輪山に向かって建てられている。三つ鳥居は三本足の烏、すなわち八咫烏を意味している。八咫烏は邪馬台国の秘密をすべて知っている組織である。