(2)邪馬台国は畿内にあった!
飛鳥昭雄氏が入手した極秘情報によると、日本列島の形成史は、次のようになる。
まず本州に関して、大きく東日本と西日本はフォッサマグナを境にして別れていた。それぞれ別の島であり、東日本列島は北方のユーラシア大陸沿岸から分かれ、西日本列島は南シナ海に面した中国から分離した。東日本列島は南下し、やがて西日本列島と激突する。逆転列島倭地理観が生まれたのは、およそ2000年前のことである。この時点で、日本列島は九州を北に、南に伸びており、今日の青森県が南東端に位置していたのである。
アメリカの極秘情報を元に、復元した2000年前の日本列島の姿は、そのまま「魏志倭人伝」の記述と一致する。逆転列島倭地理観は誤認ではなく、むしろ正確に当時の日本列島を描写していたのである。現在の日本列島を時計回りに約90度回転させ、今一度、帯方郡から邪馬台国に至るまでの道筋を辿ってみる。
①帯方郡から狗邪韓国までは異論がない。現在の仁川から釜山までの距離と方角は問題ない。当時の朝鮮半島の位置はあまり変化がない。南下した後、東へ向かって約700キロ行けば確かに辿り着ける。
②狗邪韓国から対馬へも、それほど位置関係は変わっていない。釜山から南へ100キロ行くと対馬に至る。
③対馬から壱岐へ至るには、南へ100キロとあるが、実際は東南であり、距離はもっと短い。これは日本列島の回転に引きずられ、壱岐の位置も反時計回りに回転するとともに、対馬との距離が縮まったことを物語っている。
④壱岐から末盧国へは方角が示されていないが、これは対馬から壱岐までの方角を踏襲した為で、当時は、壱岐から南に位置していた。距離も今よりも長く、100キロほどあった。末盧国は現在の松浦群である。
⑤末盧国から伊都国へは東南方向に10キロであり、松浦群から怡台群に至る距離100キロは同じだが、方角が90度回転している。上陸してから、距離はあまり変わらないが、九州自体が90度回転しているので、すべての方角を読み替える必要がある。
⑥伊都国から奴国へは東南方向に10キロである。これは怡台群から約10キロの位置にある那珂郡を示しているのだが、方角は約90度時計回りに修正した東北である。
⑦奴国から不弥国へは東南方向に10キロである。ここから比定地が分かれるのだが、ポイントは方角である。東南を約90度回転させた東北に不弥国は存在する。位置関係から、不弥国は宗像しかない。宇美は那珂郡から見て東南であり、九州の回転から見てありえない。
⑧不弥国から投馬国へは南へ船で20日間かかる。これは宗像から東へ船で20日間、航行することを意味する。ここでルートは大きく二つに分かれる。投馬国の候補地は日本海ルートでは出雲、瀬戸内海ルートでは吉備が指摘されるが、いずれにせよ、中国地方に大きなクニがあったことは間違いない。後の丹波国及び出雲、吉備に広がる領域だった可能性がある。
⑨投馬国から邪馬台国へは南へ船で10日、かつ徒歩で1か月かかる。投馬国を中国地方に比定すると、日本海ルート及び瀬戸内海ルートであろうと、東へ移動することになる。上陸地点が丹後なのか、大阪の当たりなのか、意見が分かれるところだが、ここから先、都がある地域は一つしかない。ズバリ、邪馬台国は大和であり、卑弥呼の都は纏向遺跡だと断言してよい。
⑩邪馬台国から先のクニは、四国や紀伊、熊野、伊勢など、西日本列島に属する地域である。邪馬台国の境界とあるのは、支配権が及ぶ西日本列島に限られている。
⑪邪馬台国から見て、南に狗奴国がある。これは大和盆地から見て、東の方向に伸びている東日本列島の事である。邪馬台国の支配権が及ぶ西日本列島から東に位置する今日の東日本列島は同じ倭人でありながら、別な勢力を保ち、その中心が狗奴国だった。狗奴国はフォッサマグナの向こう、すなわち東海地方から関東に至る領域に存在した。
⑫帯方郡から邪馬台国まで早く1200キロである。これは朝鮮半島の南海上に伸びる東日本列島を想定したうえで、韓国の仁川から大和盆地までの距離を示したものである。
⑬邪馬台国は会稽の東冶の東にある。これは今日の福建省の東に邪馬台国の都、すなわち大和盆地が位置していることを示している。現在の日本列島を約90度時計回りに回転させると、確かに合致することが分かる。かって畿内は現在の琉球地方にあったのである。
⑭邪馬台国から東へ100キロ行くと、別の倭人が住む国がある。これは当時の北海道を意味する。北海道もまた、東日本列島と同様に、北方ユーラシア大陸から分離して南下して、2000年前には本州の東海上に位置していた。北海道は東西日本列島とは独立して移動していたため、特に東を北に読み替える必要はない。同様に、南海上にはるか遠く位置するクニはミクロネシアやメラネシア、ポリネシアの島々であり、中米や南米の事を指している。