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邪馬台国と卑弥呼の謎(1)

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(1)「魏志倭人伝」の内容

 これは、飛鳥昭雄・三神たける著「失われた卑弥呼の金印・親魏倭王の謎」についての要約である。

 古代日本の歴史は「古事記」「日本書紀」に記されているが、古くなるほど神話性が強くなり、歴史とは思えない記述が増えてくる。そのために、客観的な歴史を知るために、日本以外の古書を知る必要がある。倭国の歴史は、「魏志倭人伝」が最も詳しい。

 「魏志倭人伝」とは、「三国志」の一つ「魏志」の中にある「東夷伝」、さらにその「倭人の条」の事を指す。わずか2000字ほどの記述であるが、邪馬台国に関する風物詩と歴史が簡潔にまとめられている。内容から文章は政治的な要素はなく、あくまでも倭国と言う外国の実情を報告したものと評価されている。

 邪馬台国が存在したのは、今から約1800年前のことである。倭国には複数の小国、クニが存在し、互いに争いが絶えなかったが、それをまとめたのが邪馬台国であった。歴代の王は男だったが、国内がまとまらず、霊能力を持つ卑弥呼が女王になると、安泰になった。「魏志倭人伝」では卑弥呼が行っていた呪術を「鬼道」と記している。これは道教に近い呪法を行っていたものと思われる。

 239年に、卑弥呼は魏に使者を送るが、これに対して中国側も使者を邪馬台国に派遣している。最初の使者を「梯儁(ていしゅん)」といい、240年から9年間倭国に滞在した。同様に247年に「張政(ちょうせい)」という使者が派遣され、28年間も倭国に滞在した。当時、九州の「伊都国」には「一大国」と言う中国側の出先機関があった。ここを拠点に魏の使いは日本国内を視察していた。彼らが見分した情報を元に、次の中国王朝「西晋」の者が「魏略」を執筆する。これを丸ごと引用する形で「陳寿(ちんじゅ)」が「魏志倭人伝」を執筆するのである。

 卑弥呼の後半生について、「魏志倭人伝」は言う。日本列島の多くのクニは邪馬台国に従ったものの、狗奴国(くなこく)だけは抵抗していた。狗奴国の王・卑弥弓呼(ひみここ)は卑弥呼と仲が悪く、邪馬台国と戦争を繰り返していた。250年頃、卑弥呼が死亡し、代わって男王が即位するが混乱した為、同じ霊能者である台与(とよ)が女王に即位することで再び邪馬台国は平和を取り戻した。台与も中国へ使者を派遣するが、この時、既に魏は滅ぼされ、西晋が中国の覇権を握っていた。台与の朝貢を最後に、邪馬台国に関する情報は途絶える。それは、4世紀ごろ、大和朝廷が成立したからである。

 邪馬台国は一体どこにあったのか? その所在地については、「魏志倭人伝」に簡潔に記されている。これらを現代文に書き下し、さらに距離の単位をキロに修正したものを示す。

①帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)へ→仁川から南へ船で航行し、朝鮮半島の南端で向きを東の変えて航行し、釜山へと至る。行程700キロ。

②狗邪韓国から対馬国へ→釜山から南へ約100キロ航行すると、対馬に至る。ほぼ方角も距離も合っている。対馬国が対馬であることは間違いない。

③対馬国から一大国へ→対馬から南へ約100キロ航行すると、壱岐に至る。実際は真南と言うより、南東方向で、距離も60キロと短い。多少のブレは有るものの、地理的には大きな島は壱岐しかない。一大国の「一」は「壱」とも表記すのでここは壱岐と見て間違いない。

④一大国から末盧国(まつろこく)へ→壱岐から約100キロ航行して大きな陸地へとたどり着く。なぜか方角が島されていないが、対馬から一大国が南へ航行していることを考えて、そのまま南へと進めば、かっての佐賀県の松浦へと至る。ここはかっての松浦群があった場所で、おそらく現在の唐津あたりに上陸した可能性が高い。もっとも壱岐からの距離は50キロ程度で、100キロの半分である。

⑤末盧国から伊都国へ→松浦群から東南に約50キロ陸上を進む。今の筑後平野当たりに伊都国は存在することになるのだが、それらしき地名が無い。敢えて方角を無視して、50キロ圏内にそれらしき地名を捜すと、筑前国「怡台群(いとぐん)」がある。今の福岡県糸島郡に属する地域だ。方角は東南でなく北東だが、状況からいって糸島半島あたりを伊都国に比定するのが理にかなっている。

⑥伊都国から奴国へ→糸島半島から東南へ約10キロ、陸上を進む。10キロと言えば、隣町のようなもので周辺を捜すと筑前国「那珂郡(なかぐん)」がある今の福岡県博多市あたりである。方角は東南でなく東北だが、状況から言って、博多とみていい。

⑦奴国から不弥国へ→博多から東へ約10キロ行くと、そこには筑前国「宇美(うみ)がある。「魏志倭人伝」によると、不弥国から再び水行を行っている。つまり、海に接した港があるはずなのだが、宇美にはそれが無い。それゆえ、筑前国は「宗像郡」だという説もある。この場合、方角は東ではなく北に近い。ここまでは学者の意見も大方一致している。しかし、距離と方角にばらつきがあり、「魏志倭人伝」の記述と地理が完全に一致していないのである。→それゆえに「魏志倭人伝」の方角が間違っているのではないかとする畿内説と、距離が間違っているとする九州説に分かれている。

⑧不弥国から投馬国(とうまこく)へ→不弥国を宇美とした場合、海が無いので、ここは宗像を採用し、そこか南へ20日間、船で航行する。しかし、既に方角が矛盾している。宗像は北方にしか海岸線が無いのである。やむなく方角を無視して、20日間の航行を考える。当時の船の速さは、20日間で約5キロほど進めと考えられる。宗像から半径500キロの円を描き、この範囲に目指す投馬国があると考えた場合、候補者は一気に増える。

⑨投馬国から邪馬台国へ→投馬国から邪馬台国へは、さらに南へ10日間、船で航行し、かつ1か月。陸上を徒歩で移動する。船での移動を約250キロ、徒歩での移動距離を先の唐の時代の資料から推定すると、約840キロで、合計約1090キロとなる。先の不弥国から投馬国までの距離500キロを足すと、約1590キロとなる。仮に北九州を起点に1590キロの円を描き、さらに方角を「魏志倭人伝」の記述通り、南へと取ると、鹿児島を通り越して遥か南方の海上へと出てしまう。そこで、今、あえて「魏志倭人伝」の記述通りに方角と距離をキチンととなぞり、さらに帯方郡から邪馬台国までの総距離約1万2000キロを当てはめると鹿児島の先、南洋上へと突き抜けてしまう。奄美大島から沖縄へと至ってしまうのである。

 当時の中国人、「魏志倭人伝」を書いた陳寿たちは、「邪馬台国は琉球地方に存在していた」と考えていた。なぜなら、「逆転列島倭地理観」を持っていたからである。「混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」では、日本列島が南北に逆転した形で配置されているのである。正確に言えば、九州を北にして時計回りに90度ほど回転した形で南北に伸びているのである。それに従って、「魏志倭人伝」の記述通りになぞっていくと邪馬台国は現在の奈良地方の纏向にあったということになる。畿内説が正しかったのである。なお、飛鳥昭雄氏はアメリカ軍が独自で収集したデータをもとにし、様々なシミュレーションを行い、2000年前の日本列島が南北逆転していたことを突き止めている。それゆえ,「魏志倭人伝」の記述は正しかったのである。


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