(17)ストレスに耐える覚悟ができた時、祈らずとも願いは叶う
幸せを追求していく中で、悩みや苦労はどうするかという問題が当然起こる。結婚したら幸せになるとか、お金持ちになったら幸せになると思ったことがあるはずである。これが不思議で、私たちは無いものを手に入れようとして頑張るのだが、手に入れた途端に別の悩みが発生する。例えば、社長になったら、ベンツを乗り回すことができると思ったら、なった途端に借金と資金繰りで首が回らない。
古事記にもある。木花佐久夜姫をニニギノミコトが娶った時に、「私美人ですけど、実は姉がおります」と、木花佐久夜姫が言った。姉は醜女であった。ニニギノミコトはこの姉を帰らせた。すると、木花佐久夜姫は「私と姉は常に一体です」と言ったという。
幸せの陰には必ず苦労というモノがある。ところがこれが最初は見えない。そこにぶつかった時に、初めて裏が見える。いいように見えるけど、その陰には必ず苦しい面もある。そのストレスに耐える覚悟ができた時に、祈らずとも願いは叶い、夢を手に入れることができる。神社に行って拝んでも、そのストレスに耐えられないうちは、その望みは接近してこない。「私は乗り越えるのだ」と強い意志で突破したとき、道は開けてくる。その時は、超能力も何もいらない。心の力で幸せを引き寄せるのである。
五島氏が講演中に、五島氏の元で気功を習っている青年の顔がパッと浮かんで、オーラの状態が見えたことがあるという。人間は生体エネルギーを発散している。それがオーラである。その時、その青年のオーラが収縮して消えそうになった。「命が危ない」と直感した。ところが次の瞬間、消えかかったロウソクの火が再び灯るように、オーラの光が戻って来た。「ああ、助かったんだ」とわかったという。後から連絡を受けて知ったのは、五島氏の講演中にその青年が交通事故に遭い、バイクは大破して放り投げられ、普通は即死のところ、かすり傷で終わったということだった。あの時、見たものはそれだったのである。
助かるのだという強い信念を、危機一髪の時に彼は持ったわけである。人間の体には、幽体というモノがあり、バイクから投げ出されたときに、その強い信念によって彼の幽体が大きくなって地面からガードしたのである。人間から出る不思議な生体エネルギーを鍛えるのが気功であり、彼は普段からそれを鍛えていた。しかし、その根本には自分の事は自ら助け、乗り越えていく気持ちがあったのである。
一番良い奇跡は、心が落ち着いて平安なる境地にあって、安全運転をすることである。「ああ、人間として生まれてよかった」という生の充実感を味わえるかどうかに人間の本来の価値がある。私たちは、前世や前々世で果しえなかった夢や希望を、現実のものとするために、再び生まれてきたのである。人生で立ちはだかる困難から目を逸らさせ、弱者にする教えは一切お断りである。
最初は水晶に頼ってもいいけれど、最後の決断は、自分で下す。今の自分におかれた人生に勝利することである。
19世紀半ば、イギリスのサミュエル・スマイルズは「自助論」の中で言っている。「人に頼らず、自らの人生は自らの力で切り開こう。いかなる困難があっても、自らが強くなり、有り余った慈悲と愛を施すのが真の騎士道だ」 それを幕末に中村正直が「西国立志編」として邦訳している。
困難な問題に直面したとき、人は精神的に圧倒されてしまう。だから、依頼心が発生する。五島氏は「困った時ほど、神に頼るな」と言っている。自分の気持ちがマイナスの時ほど、自助の精神を発揮させなくてはならない。自分で自分を助ける。その時、不思議な奇跡が働くという。天はそういう人間を助けようとするからである。
私たちが幸せをつかむときはバイタリティが必要である。今の環境でそのまま幸せになるには、毎日の中にあるくだらないと思える仕事を嬉々としてやることである。その時に、生命力は凄まじいバイタリティが発生する。それは健康をもたらし、運命を劇的に変革する力となる。
自助の精神が宇宙のゴールデンルールを引き寄せるのである。幸せを感じるには、欠かせないのが、愛の気持ちである。一番大事なのは、まず自分を愛すること。自分を愛することができる人は、自ずと、「ほどほどに愛することが本当に愛することだ」と段々わかって来る。では愛とは何か?
愛とは一体感である。水を飲むときも水と一体になることである。そして自分を愛するには自分の性格を知り尽くすことである。知って知って知り尽くすと、自ずと自分に対する愛の気持ちが湧き上がって来る。エネルギーや循環や光の姿を知り、自らの力を発揮し、自らを愛して、一体感を持つ。そういう思いで今から精神世界や波動や気功を学ばれれば、間違いない道に行かれると思う。(五島氏)