(47)「未来記」第九章 近代日本の預言
(第九章の読み下し全文)
第二は日蓮法師と名づく 法華経に依りて邪法を建て 私門は作りて誹謗を吐き 正法を僄して神祇を軽んじる 白衣を着て黒衣を厭い 経名を唱えて念仏を忌み 札を書して門戸に押し 以って自家の業と為す 仏戒を破りて法華経に背き 僧の威儀に違えて而して自ら禍いを招く 別に廣経を持ちて而して狡さを説き 檀那を惑わして餓鬼道に堕と令める 内は釈尊の妙文に違い 外は天台の教言に背く 故に王臣は許さずして盗衆と名付け 武士は信ずして外道と呼ぶ 故に以って此の党等を信ずる者は 工男遊女 仰ぐ族は商人漁夫のみ
(現代語訳)
二番目は、名を日蓮法師という。法華経に則りながら、邪法(真理に背いた道)を述べて自分の宗派を興し、悪口を言っては正法(真理の道)と神祇(天津神と国津神)を軽んじる。
白衣を身に着けて黒衣を避け、軽名(経典の名・南無妙法蓮華経)を唱えて念仏を嫌い、札に書いて出入り口に貼り付け自分自身の生業とする。
仏戒(仏の戒め)を破って、法華経に背き、僧の威儀(法則にかなった振る舞い)に合わないことをして、自分から禍いを招く。また廣経を手に取って悪賢いことを説き、檀那(僧に金品を施す信者)を惑わし餓鬼道に堕とす。
内は釈尊の優れて霊妙な経典(法華経)から離れ、そして外は天台宗の教育に背く。
そのため君主や家臣たちはこれを認めず「盗衆」と名付け、武士も信仰せずに「外道」と呼ぶ。それゆえ、この者達を信仰するのはもっぱら職人や遊女、そして商人と漁民だけである。
(歴史的現代→日本)
聖徳太子の生まれた年から亡くなった年を調べると、意外なつながりがある一人の僧と関連してくる。聖徳太子の生年は574年(甲午)。没年は622年(壬午)というのが定説になっている。これは「上宮聖徳法王帝説」、「聖徳太子伝補闕記」などに基づくが異説も多い。生年に関しては「聖徳太子伝暦」が572年、「法隆寺旧記」が573年説をとっている。没年では「伝暦」では、621年説になっている。「書記」も621年説である。
だが、「法隆寺釈迦三尊光背銘」では622年に対しが病を患い、その翌日太子が亡くなったと記しており、これが一応の定説となっている。
太子の死亡年は「伝暦」、「書記」が推古29年(621年)、「釈迦三尊光背銘」や「帝説」が推古30年(622年)と食い違う。これも推古30年が正しいとみなされている。
ということで、ここでは推古30年(622年)2月22日を太子の死亡日とすることにする。
このように見てくると、太子が死亡したのが622年(壬午)の年である。「未来記」はその600年後から預言を開始しているため、1222年からの預言を記している。「未然記」も第七百歳は壬午(1222年)から始まる。つまり、1222年は日本人にとって、重大な出来事が起きた年になる。日本を滅びに導く者の生誕を示すからである。そう、日蓮が生まれたのが、壬午の貞応元年2月16日(1222年3月30日)なのである。そればかりではない。日蓮が死亡した弘安5年10月13日(1282年11月21日)も壬午に当たる。
日蓮が日本に救いをもたらさないことは、「未来記」が「三悪僧」と記すことから肯定せざるを得ない。「未来記」は日蓮の教えが現代を含む日本人の進めべき道を過たせるとしている。
戦後、日蓮の教えを継承する政党が台頭してくる。「創価学会」を基盤とする「公明党」である。
創価学会は「他の宗教と宗派を全て邪義とする」日蓮原理主義の新興宗教である。昔は日蓮正宗に属していたが、1955年、「日蓮宗妙龍寺」と創価学会小樽班の間で論争が起こり、1979年、批判派僧侶の大多数が日蓮正宗から破門され、今は別の宗教団体になっているが、根は日蓮で同じであることは言うまでもない。
1967年、創価学会が憲法20条の「政教分離の原則」を無視し、公明党を立ち上げて参議院選に出馬する。20条には信教の自由は保障しても、宗教団体が政治上の権力を行使してはならないと明確に記してある。
ところが、当時の内閣法制局が、憲法を無視してお咎め無しとしたため、政教分離がザル法になってしまったのである。確証はないが法制局の上部に創価学会の信者がいて、強制力を働かせたとも推測されている。そこを突いて出てきたのが、カルト教団の「オウム真理教」である。1990年の衆院選で、麻原を党首とする「真理党」を立ち上げ出馬して来たのである、これで憲法の政教分離など無きも同然となった。憲法までが日本ではザル法なのである。
「未来記」が日蓮を、国を過たせる悪僧という以上、公明党の存在が日本を窮地に陥れると受け取られる。公明党が憲法を犯して政治に介入した段階で、日本の亡国が決定的になったということである。
これは聖徳太子が、日蓮を亡国に導く悪僧と預言した以上、そこから派生した公明党も同じなのである。公明党は多数の議席こそ保持していないが、創価学会の組織票が欲しい自民党と連立を組むことで、ブッシュジュニアに同調する多くの法案を可決に導いてきた。
経済改革も、アメリカ追従の「竹中改革」を支え、アメリカが日本に押し付ける「年次改革要望書」を、自民党と共に忠実に履行させていった。
ゼロ金利の押し付け、金融自由化の要求、郵政民営化など一連の狙いは、日本人の個人金融資産の略奪が目的で、その資金で外資が日本企業を買収するという新たなアメリカの植民地政策が正体だった。
その看板として必要だったのが公共事業などの無駄遣いをなくす大義名分で、結局それも、天下りを温存させて小泉と竹中は道半ばで敵前逃亡する。
公明党の所業はそれだけではない。イラク特措置法によるイラク派遣(派兵)に賛同し、福祉破壊の小泉改革の4年間、年金改正で「百年安心」の誇大宣伝を打ち出し、国会審議もなく年金保険料を毎年引き上げる法案を可決させる。
結果、世界一の高齢社会において、保険料を上げて給料額を下げる弱者切り捨てのお先棒を担ぐ。公明党の巻き添えを食らう全国の高齢者達は、400万人とも言われる創価学会の組織票の為、これから先も死ぬまで苦しめられるのである。