(43)「未来記」第八章の2と3
(後醍醐天皇が吉野に逃れる)
「第八章の2の読み下し文」
此の帝武士の為に都を去りて吉野山へ潜幸し遂に還幸なく相継ぎて王法は衰廢する
(現代語訳)此の帝は武士によって都を追われ吉野山に身を潜めるが、とうとう戻ることなく終え、それとともに王法も廃れる。
(現代注釈訳)
「此帝」とは後醍醐天皇のこと。「武士」とは後醍醐天皇の軍を打ち破った足利尊氏のことである。「王法」とは君主政治、つまりは天皇制を示している。「衰廢」とは真の天皇の血統が南朝にあるため、北朝の天皇は偽物となること。
(歴次的事実)
後醍醐天皇は、鎌倉幕府によって、兄の後三条天皇の第一皇子・邦良親王が成人するまでの中継ぎの傍流とされていた。これでは後醍醐天皇の子孫が継承されないため、鎌倉幕府討伐を計画する。
正中元年(1324年)、討伐計画が発覚し、六波羅探題が乗り出したため、次の機会をうかがうことになる。やがて中宮の御産祈祷と称して、鎌倉幕府への呪詛である調伏の祈祷を行うが、その際、京都の「興福寺」や「延暦寺」など南都の寺社に接近する。一遍が開いた時宗も、これを目的に寺の建立を許したと考えられる。
元弘元年(1331年)、二度目の討幕計画も発覚し、後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。しかし、後醍醐天皇を隠岐から脱出させ、幕府から派遣された足利尊氏の裏切りが功を奏して六波羅探題を破る。その直後、東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落して北条氏を滅亡させている。
帰郷した後醍醐天皇は光厳天皇の行為を無効にし、「建武の新政」を宣言するが、恩賞に不満を持つ足利尊氏らの反乱にあう。一時は尊氏を九州まで追い込むが、軍を立て直した尊氏軍に、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北する。そして後醍醐天皇は吉野に籠り、「南朝」を開いて京都の「北朝」と対立する。これが「南北朝時代」である。その後、後醍醐天皇は病に倒れ、「吉野金輪王寺」で崩御する。
このように、時宗を受け入れた後醍醐天皇は、瞬く間に戦争、捕縛、島流し、裏切り、賊の災難等々に遭遇し、正統な天皇家の血筋さえ断絶寸前に追い込むことになる。
四天王寺で「未来記」を垣間見た楠木正成は、後醍醐天皇の末路を先見していたことになる。それでも最後まで後醍醐天皇を見捨てず、忠孝を尽くした武将だった為、明治新政府により皇居前に楠木正成像が建てられたのである。
(参考資料)
後醍醐天皇の正統な血筋は、皇子・護良親王以降も継承され、明治10年(1877年)、明治天皇により、後醍醐天皇の南朝系が真の血統と宣言する「大政紀要」が発布される。常識的に言えば、明治天皇は江戸幕府最後の天皇・孝明天皇の子で、北朝系の天皇である。しかし、なぜ南朝系を正統と宣言したのかという謎が生まれる。
実は、孝明天皇の死には深い謎が多く、孝明天皇の典医だった伊良子光尊は、岩倉具視の姪・堀河紀子が天皇に毒を持ったと言い残していた。閑院宮家の侍医・土肥春耕も、天皇への止めは槍による刺し傷と言い残している。このことから、倒幕の要だった岩倉具視一派が、長年続いた偽天皇の北朝系を、維新の混乱に乗じて入れ替えた可能性が出て来るのである。勿論、孝明天皇の子・睦仁親王も暗殺され、入れ替えられたことになる。それが明治天皇である。
事実、即位前の虚弱体質だった睦仁親王のイメージと、即位後のがっしりとした巨漢の睦仁親王とは全く別人である。それでは明治天皇は何者かというと、本名を大室寅之助と言い、長州藩が毛利家の祖の大江家の頃からかくまい続けた南朝系の光良親王の直系ということまで判明している。
光良親王は後醍醐天皇から11代目の血統で、長年、南朝系の血統が維持されてきたことになる。楠木正成は、その事も「未来記」、「未然記」から解釈したとすれば、やはり只者ではなかったことになる。
(時宗を受け入れた後、平家は全滅の運命を招き寄せる)
「第八章の3の読み下し文」
盛平九代の臣は彼の邪法を仰ぎて 相州に於いて道場を創め 彼の法師を以て住持し比丘と為す 七年を経て中夏に至りて 小敵のために傾けられ一族二百余人は共に滅亡する 深く慎みて遠慮すべしか
(現代語訳)
盛平9代の家臣もまた邪法を信仰して道場を建て、かの法師を住職とするが、7年が過ぎた夏の半ばに少数の敵に倒され、一族二百余人皆そろって滅亡する。慎重に深く考えて遠い先々のことを見通す必要がある。
(現代注釈訳)
「盛平」とは平清盛のこと。「相州」とは相模国で、今の神奈川県北部のことである。清盛は一遍の時宗を受け入れた後、たちまち災いが下り一族郎党が滅亡する運命を招き寄せてしまう。
(歴史的事実)
一遍の一番弟子だった他阿は、他阿阿弥陀仏と称して法諱を真教という。正応2年(1289年)、一遍がこの世を去った時、いったん時宗は解散の憂き目を見るが、他阿が再び結集させて本格的な時宗を興す。他阿は北陸から関東に遊行し、遊行3世を量阿に譲った後、相模国に草庵となる「当麻道場(金光院無量光寺)」を建立して独住する。そこから「藤沢道場」を起こす有阿、「七条道場」を興す呑海、「四条道場」を興す浄阿(真観)らを輩出し、さらに拡大していく。都落ちした平家は、小勢の兵を引き連れて源義経の軍に、瀬戸内海の長門で起きた「壇ノ浦の戦い」(1185年)で一族の全てが滅び去った。