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聖徳太子の「未来記」開封(42)

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(42)「未来記」第八章の全文

「第八章全文」

如来金言大乗妙文誠諦哉 仁王九十六世帝信彼徒黨於洛陽造金堂以彼法師而為主 三年發七難七年顕三災 此帝為武士去都而吉野山潜幸遂無還幸相継王法衰廢 盛平九代臣仰彼邪法於相州創道場 以彼法師而為住持比丘 經七年至中夏為 小敵被傾一族二百餘人共滅亡 深慎應遠慮焉

(後醍醐天皇最大の過ち)

「第八章の一の読み下し文」

如来の金言大乗の妙文は誠諦なる哉 仁王九十六世の帝は彼の徒党を信じて 洛陽において金堂を造り 彼の法師を以て主と為す 三年にして七難を発し、七年にして三災を顕す

(現代語訳)

如来の尊いお言葉である大乗の経典は、真実を明らかにするものである。人皇96代の帝はその宗派を信仰し洛陽に金堂を建立してかの法師を主とする。3年で七難が起き、7年で三災が顕れる。

(現代注釈訳)

 「徒党」とは時宗のことである。興したのは三悪僧の一人一遍である。「洛陽」とは中国の後漢・魏・西晋・北魏・隋・後唐の首都となった洛陽ではなく平安京のことである。「金堂」は本尊を安置する仏殿である。「仁王九十六世帝」とは魏醍醐天皇を指す。

(歴史的事実)

 文保2年(1318年)、第96代・後醍醐天皇は31歳で即位するが、崩御した兄の後三条天皇の第一皇子・邦長親王が成人するまでの中継ぎ天皇だった。そのため、自分の子への皇位継承ができないため、裁定を下した鎌倉幕府へ反感を募らせていく。

 即位3年は、父・後宇多法皇が院政を行ったため、後醍醐天皇は名ばかりの苦渋を飲まされ、7年後、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚し、六波羅探題が後醍醐天皇の側近らを処分する「正中の変」が起こる。その結果、重要な側近を失う事態に陥る。

 洛陽の由来は、河である洛水の北に造営された都の意味である。風水では川の北が陽になるため洛陽と呼ぶ。平安京も風水都市として知られている。風水は中国で重んじられた思想で、都市・住居・建物・墓などの位置を決定するため用いられた地相術である。東に青龍の川を配し、西に白虎の道を配し、南に朱雀の海を配し、北に玄武の山を配する。平安京も東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山を配していた。

 後醍醐天皇は、正応元年(1288年)に生を受けた以上、正応2年(1289年)にこの世を去った一遍とは面識があるはずはない。よって、ここで言う「法師」とは一遍の時宗、あるいは一遍に象徴される遊行上人の俗称と考えられる。実際、他阿は遊行上人2世を名乗り、歴代の法師も3世、4世と名乗っていく。遊行上人4世だった呑海は、京都に「七条道場(金光寺)」を興し、それ以降、京都には「六条道場(歓喜交寺)」、「市屋道場(金光寺)」、「霊山道場(正法寺)」などが続々と建ち、四条大路北の東京極大路東にも、真観が「四条道場(金蓮寺)」を建てた。

 道場に過ぎなかった時宗を、金堂を持つ寺へ昇格させたのは誰でもない後醍醐天皇だった。その後、本格的な七難三災が後醍醐天皇自らに降りかかってくる。


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