(36)「未来記」第五章の全文
「第五章全文」
彼三比丘之第一名一遍法師 依念仏三昧立私家 弘邪義許女犯而侶尼一所起臥
著鼠色衣而禁黒衣 修踊躍念仏而汚六字名号 惑人民而授往生札 集悪病人而為眷属
遊行国郡而費米銭 現奇特而諸人被信敬 引施主而為堕地獄 蓋以如斯
(三悪僧の最初は一遍である)
(読み下し文)
彼の三比丘の第一は一遍法師と名つく 念仏三昧に依りて私家を立て 邪義を弘め女犯を許して侶尼と一所に起臥する。
(現代語訳)
三悪僧の一番目は、名前を一遍法師と言い、念仏三昧で、自分個人の家を建て、偽りの道理を世の中に広め、僧が女性と交合することを許し、尼と一つの場所で寝起きする。
(現代注釈訳)
「比丘」は仏教の出家修行者をいう。三比丘は三悪僧を指し、その一人が踊念仏だけで極楽浄土に行けると説いた一遍とする。
(歴史的事実)
一遍は鎌倉時代中期の僧で、一心に仏名を唱えることで救われると説き、信者を率いて遊行を行い、踊り念仏で極楽浄土に行けると教えた。その教義は、絶対他力であり、人の努力など全て無駄と説き、南無阿弥陀仏の6文字を唱えるだけを実践した。これを「十一不二」といい、法蔵菩薩が仏の悟りを得て南無阿弥陀仏になったことと、凡人が一度の念仏で往生することを同じとした。さらに唱える念仏は空念仏でなければならないとした。それゆえに必然的に捨て聖となる。
(南無阿弥陀仏を汚す踊り念仏を言い広める)
(読み下し文)
鼠色の衣を着けて黒衣を禁じ 踊躍念仏を修めて六字の名号を汚す 人民を惑わして往生の札を授ける。
(現代語訳)
鼠色の衣を身に着け黒衣を戒め、踊躍念仏を修めて、六字の名号を貶める。人々を惑わして、死後極楽浄土に生まれ変われるというお札を授ける。
(現代注釈訳)
「踊躍念仏」とは踊り念仏のことで、「六字の名号」とは南無阿弥陀仏のことである。「往生札」とは「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した念仏札を言う。一遍が南無阿弥陀仏の垂迹神とされる熊野権現から、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札を配るべし」の神託を受けて作った札であり、これを賦算という。
(歴史的事実)
一遍が念仏に踊りを入れた理由は定かではないが、おそらく民衆から目立ち、己の布教を成功させる武器と気づいたからであろう。最初は踊り方も決まっていなかったが、やがて踊屋を作り、時宗として室町時代まで拡大した。庶民レベルにまで降りた仏教ではあったが、逆に庶民的に染まったため、宗教としての戒律は無きに等しくなった。事実、一遍は生涯、教団を作れず、時宗という宗派が成立するのは一遍の没後である。弟子の他阿真教が二祖となってからである。言い換えれば、一遍は生涯寺を持た根なし草として生きたことになる。
(宗教的ネズミ講の拡大)
(読み下し文)
悪病人を集めて眷属と為し 国郡に遊行して米銭を費やし 奇特を現して諸人の信敬を被り 施主を引きて地獄に堕とさんと為す 蓋し以って斯くの如し。
(現代語訳)
質の悪い病気の人を集めては配下とし、国中を遊び歩いて米と銭を無駄に使い、霊験を現して多くの人の信敬を受けて施主を引き寄せ、そして地獄に堕とそうとする。まさしくこの通りである。
(現代注釈訳)
「施主」とは僧にものを施す人を言う。一遍と信者たちが行基のように河川工事や治水工事をしたり、貧しい者の家を作った記録はない。ただ念仏を唱えて踊り狂いながら国中を漫遊し、あちこちで食料を頂戴していただけである。
(歴史的事実)
一遍が教える念仏は、空念仏でなければならないとする。融通念仏でなければならなかったのである。どういうことかというと、自分の唱える念仏の功徳が全て他人の功徳となり、他人の唱える念仏の功徳が自分の功徳になるとしたからである。
そこには何の自我もなく思い入れもない。よって責任も発生しない。信者は集団の中の一つの歯車に過ぎないため、民衆は一斉にこれに飛びついた。安直さにもそれなりの理論武装があったからである。空念仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるなら、悪人も極楽が約束されている。だから罪人も悔い改めることなく一遍を支持した。これは法をも崩壊させる極めて身勝手な教えだった。
これは一種の宗教ネズミ講で、結果、一遍の時宗は際限なく拡大していった。一方、バカ踊をしているだけではなく、一遍の布教は効果的で狡猾だった。熊野詣に訪れる大勢の参拝者を狙い、参道で人目に立つ踊り念仏を披露し、最後には伊勢神宮の参道でも踊り狂った。
一般的に無私と思われている一遍も、実は狡猾に神社信仰を悪用していたのである。伊勢神宮まで悪用する一遍を、天皇家の聖徳太子が許すはずがない。