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聖徳太子の「未来記」開封(31)

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(31)「未来記」第三章(4)~(5)

(浄土宗の発展を預言)

「第三章 四」

(読み下し文)

浄土の宗門は興繁して慧遠善導の出世に同じ 王臣は各信じ貴賤はともに帰す。

(現代語訳)

慧遠や善導のように出家して、浄土宗の僧となる者が多くなる。王臣は、思い思いに信仰し、身分の高い人も低い人も一緒に身を寄せる。

(現代注釈訳)

「慧遠」は中国の高僧で、二人いる慧遠の中の「廬山の慧遠」と思われる。(参考までに他方は浄影寺の慧遠と呼ばれる)

 慧遠は廬山教団の指導者で、13歳で叔父に伴われて評昌と洛陽に遊学し、「六経」を学び、21歳で道安の弟子となって出家する。

「善導」は中国浄土教の大成者で、日本の法然、親鸞に大きな影響を与えたとされる僧である。

「王臣」は君主に仕える人を言い、身分に関係なく、各々が仏教を厚く信仰する時代になるとしている。

(歴史的事実)

「浄土宗」は、平安時代末から鎌倉時代初期の僧侶・法然が開祖の宗派で、法然の死後、多くの流派を生み出した。

「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで浄土に行けると説き、武士や公家などの信仰を得て、関東や京都で大いに繁栄する。

 弟子だった親鸞は、法然の死後、新たに「浄土真宗」を開いて、悪人ほど救われねばならないとする「悪人正機説」を説き、更に法然の教えを進歩させた。

 このように、「未来記」が預言を始めた頃の日本は、いろいろな意味で仏教が最高潮に達した頃だった。裏を返せば、仏教の衰退が始まる兆しの時代でもあった。

 

(安易な拡大は衰退を招き寄せる)

「第三章 五」

(読み下し文)

都鄙遠近に流布するは唯極楽の経戒なり、僧尼も男女も専修するは是れ念仏の一行のみ。

(現代語訳)

 都や田舎のそこかしこに広まるが、唯極楽浄土のための経と戒めだけで、僧も尼も男も女も専ら念仏の一行だけを修めるだけだ。

(歴史的事実)

 念仏を唱えるだけで極楽浄土に行ける教えは、安易なだけに口先の信仰を生み出した。

宗教に欠かせない人徳を高める修行や、他人のために働く行為、無償の奉仕が影を潜め、信者拡大が主流の仏教が幅を利かすようになる。

 安易さは軽薄さと同意である。

 日本人と少し事情は違うが、16世紀のヨーロッパでは、カトリック教会が教会道建設の費用獲得のため、金銭で罪を軽減させる手段に打って出ている。免罪符で知られる「贖宥状」である。カトリック教会が金銭で贖宥状を乱発した結果、信仰の衰退につながり、「宗教改革」の嵐を呼び込む原因となる。

 安易で急激な拡大はどこかでバランスを欠く。バランスを失ったとき、崩壊を伴う異常拡大を招くともいえる。それは現代日本が経験した異常なバブルと、その後の崩壊と似たものがある。

 「未来記」は安直ですます行為を決して是としていない。小泉元首相が得意としたショートトークも、一つの才能ではあっても、マスコミを喜ばせるリップサービスで深みが無く、分かりやすさだけが先行する口先の技術だった。

 もし日本人全員が同じことをすれば、中身の無い味気の無い軽薄な国になるだろう。無駄から生まれるものが文化なら、今の日本は確実に文化を失いつつある。遠回りや無駄を軽視する傾向が、一層強まっているからである。それが形容詞の無い若者文化を生み出し、田舎や地方、弱者や老人への軽視へとつながっている。

 「未来記」がバブルとその崩壊とともに世に出てきたことを思えば、仏教の繁栄と衰退が並立した時代と同じ意味を持つ。


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