(28)「未来記」第三章の全文
「第三章 全文」
爾時仏法興隆僧道繁栄 法華秘密両宗加威而超于天台不空代 戒律仏心二家正全而勝于曇無達磨時 浄土宗門興繁同慧遠善導出世 王臣各信而貴賤共歸 都鄙遠近流布唯極楽經戒 僧尼男女専修是念仏一行耳
(仏教衰退直前の繁栄)
「第三章 一」
爾時仏法興隆僧道繁栄
(読み下し文)
その時仏法は興隆し僧道が繁栄する。
(現代語訳)
そのとき、仏教が盛んになり、僧侶が繁栄することになる。
(現代注釈訳)
「その時、仏教が盛んになり」とは、1180年から1221年までの約40年間の仏教界と、一般庶民の仏教意識での出来事を指している。仏法が隆盛を極め、僧侶が増えることは仏教界にとれば幸いなことである。だが問題は、なぜ「未来記」がその時代から預言を開始したかということである。さらに言えば、「未来記」が写本とはいえ世に出た今、仏教徒は激減しているにもかかわらず、多くの寺の経営が成り立っている。なぜだろうか?
実は、今の仏教界は葬式で持っているのだ。さらに、京都や鎌倉などの寺は、観光産業で身を立てている。その結果、日本人の多くは、寺と言えば葬式と観光地としか考えないようになった。
しかし、釈迦が求めたのはそんな仏教ではなく、布教し、迷う多くの人を救い、人々を極楽浄土に導くことだったはずである。己の財を築かず、食べ物は托鉢で得る。それで過ごすのが仏教徒の根本理念だった。葬式で高い法名を売り、墓を売り、観光業で儲ける・・・日本の仏教界はどこかおかしい。
鎌倉時代も現代と同様、仏教が表面的には栄えているように見えるが、根本理念が希薄、あるいは消滅している時代だった。ごく一部の仏教以外は、全てが間違っている時代だったのである。そのように「未来記」は記している。
(歴史的事実)
法隆寺と四天王寺には、昔から一つの噂があった。「未来記」が世に出れば、日本の仏教が滅びる(衰退する)という言い伝えである。それにもかかわらず、「未来記」の預言が開始された1222年、仏教が一挙に花開いている。これは大きな矛盾である。「未来記」の記述には、何か深い意味がありそうである。
実はこの時代、中身を伴わない念仏だけの仏教、踊り狂うだけの仏教、過激なだけの仏教が台頭し、旧来の仏教も長年の間に土台が腐り始めていた。だから、一見すると華々しく仏教が発展してきたかのようだが、実態はお寒い限りだったのである。
それもそのはず、この時代、「末法」という仏教の滅する時代に突入していたからである。末法は、釈迦の入滅後、正法・像法の2000年を経過すると、その後1万年は釈迦の教えは残るが、悟りを得る者がなくなる世を言う。これは末法に仏教が衰えるとする思想でもあり、最澄に仮託された「末法灯明記」によれば、1052年(永承7年)の平安時代末期から末法に入ったと定められた。
(参考資料)
聖徳太子が仏教を最初に取り入れたと思われているがそれは間違いのようである。「日本書紀」では仏教公伝は552年で、「上宮聖徳法王帝説」及び「元興寺縁起」では538年で、百済の聖明王が仏像と經論を献じたとある。その結果、物部氏と蘇我氏が仏教を挟んで争うことになる。
聖徳太子は572年1月1日に生まれているので、仏教伝来が552年であれ538年であれ、太子が生まれる前に蘇我稲目が仏教を導入していたことになる。実際、552年に蘇我稲目が曲河の小治田の敷地に向原寺を建立しているのだ。そう考えると、聖徳太子が生まれる20年前に、蘇我氏によって仏教が導入されていたことになる。