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聖徳太子の「未来記」開封(25)

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(25)「未来記」第二章の全文

「第二章全文」

藤華散廢源葉登三台 公家年年衰廢武士度度盛興 日本一州悉為武家領 己經三代尼女将軍而主弓馬之道 三皇遠嶋流行而武将圍朝廷

(藤原家は勢力を失う)

「第二章 一」

藤華散廢源葉登三台

(読み下し文)

藤華は散廢し源葉は三台に登る。

(現代語訳)

藤花はちりじりに廃れ、源葉が太政大臣・左大臣・右大臣の位につく。

(現代注釈訳)

 栄華を極めた藤原氏による貴族政治もついに衰退する。代わって源氏の正系譜が台頭し、太政大臣・左大臣・右大臣の位につく。「藤華」とは藤原氏のこと、「源葉」は源氏、「三台」は主要な地位で、太政大臣・左大臣・右大臣を指す。貴族の時代が終焉し、武士の台頭を預言している。

(歴史的事実)

 貴族中心の律令政権は935年の「平将門の乱」から、徐々に揺らぎ、939年の「藤原純友の乱」で、律令体制崩壊の兆しを見せ始める。厳密には、武士団が起こした乱ではなかったが、その後、東国を中心に武士団が誕生するや、「前九年の役・後三年の役」が起こり、その武士団を統合したのが源義朝だった。

 藤原氏が築いた律令体制の土台は、徐々に時代の波に呑み込まれ、武士が貴族にとって代わる時代がやってこようとしていた。後白河院政で、一度は親政によって貴族社会を立て直したかに見えたが、院政派と天皇親政派が争い、そこに源平の勢力が台頭してくる機会を与えてしまった。

 その後、平清盛が平氏政権を成立させたことで、朝廷の威光は危ういものとなり、武士が朝廷と並んだのは、鎌倉幕府を築いた源頼朝の頃だった。鎌倉時代は公武両政権時代と言われるほど、東西の両勢力が均衡した時代だった。武家政権も朝廷も、荘園制と知行国を経済基盤として、地頭が両方に寄生する重複構造を保っていた。つまり、二つの勢力が京都と鎌倉にあり、それぞれ別個の政治権力として並存していたのである。言い換えれば、源氏によって武士と朝廷の力が並んだことになる。源氏が太政大臣、左大臣、右大臣を占めたのも同じく、1190年、源頼朝が京都に上がった時、朝廷から権大納言に命じられ、右近衛大将まで兼ねるようになり、1192年に征夷大将軍に任じられた。そのことが、藤原氏の表舞台からの転落と、武士勢力による日本国家乗っ取りの分岐点となった。

(武士の日本国乗っ取り)

「第二章 二」

公家年年衰廢而武士度度盛興

(読み下し文)

公家は年々に衰廢し而るに武士は度々に盛興す。

(現代語訳)

公家は年々衰え、武士はしばしば盛り栄える。

(現代注釈訳)

公家の勢力は年々衰え、それに対して武士の勢力は盛んになっていく。「年年」は年々、「度度」は度々で、「盛興」とは武士団が栄え広がることを言う。

「第二章 三」

日本一州悉為武家領

(読み下し文)

日本一州悉く武家の領と為す。

(現代語訳)

日本国全てが武家の占領するところとなる。

(歴史的事実)

 預言が始まる時代には、必ず何らかの重大な事件や出来事が起きている。鎌倉時代は、聖徳太子の頃に確立させた天皇中心の祭礼一致政治を、配下(武士)の者に乗っ取られた時代と言える。それは、院政を敷き朝廷を堕落させた側の責任ともいえるが、天皇家の権力が武士集団に力で剥奪されたことも間違いない。その意味では権威より武力で日本を支配する時代になったと言える。

 とはいえ、武士には厳しい節度と精神も求められ、それが武士道精神となって花開くが、それはむしろ徳川時代の政略で誕生したもので、戦よりも精神主義が求められた結果の産物である。実際、鎌倉時代以降の日本は、更に群雄割拠の時代となり、武力と陰謀によって肉親が血で血を洗う戦乱の時代を迎え、さらに国土が荒れ果てていく。こうして朝廷は、軒を武士に貸したために、母屋まで取られる羽目に陥ったのである。


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