(23)「未来記」第1章(3)~(6)
(兄王の堕落と武士の高慢の果て)
「第一章 三」
(読み下し文)
兄王は西海に沈み、武士は禁裡を汚す。
(現代語訳)
兄王は西の海に沈み、武士が宮中にまで入り込む。
(現代注釈訳)
「兄王」とは第一皇子の土御門天皇のことである。「沈」とは敗北による島流しを意味し、天皇の権威が落ちることを示唆する。
(歴史的事実)
土御門天皇の頃、朝廷は後鳥羽上皇の威光が強く、一気に鎌倉幕府に対する遺恨を晴らす決定を下す。その煽りを受けて、「承久の変」の際には、土御門天皇は既に退位していたのもかかわらず、責任を取らされて島流しにされる。「承久の変」は、急速な勢力を持ち始めた武士に対し、危機感を強めた朝廷側が反幕府勢力を結集して討幕しようと起こした戦だった。反幕府の急先鋒は、源頼朝に用いられて議奏となり朝廷で内大臣にまでなった土御門通親だった。通親は、当時の反幕府勢力を結集し、親幕府派だった九条兼実を退けた人物として知られる。
1198年、鎌倉幕府の中で、北条義時による将軍・源実朝の暗殺事件が起きた。それをきっかけに、鎌倉に激震が走ると見た後鳥羽上皇は、ついに討幕の命を下す。しかし、北条義時に取れば邪魔な存在が亡くなっただけのことで、天将軍・政子による鎌倉幕府の結束の方が勝り、朝廷の討幕軍は打ち滅ぼされてしまう。
結果、土御門天皇は「承久の変」の直接の関係者ではなかったが、西国である土佐に流され、その後さらに阿波へと流される。一方、後鳥羽上皇も、乱の責任を取って、隠岐へ流された。こうして院庁は完全に廃止され、武士の揺るぎない天下が確立されたのである。
(神璽と朝廷軍)
「第一章 四」
(読み下し文)
寳剣を失い、兵乱は止まず。
(現代語訳)
三種の神器の一つである宝剣を失い、なお戦乱は収まらない。
(現代注釈訳)
「寳剣」とは三種の神器の「草薙剣」を指す。それを鎌倉幕府軍との戦いで奪われたため、朝廷軍は混乱の極みに陥ることを示している。
(歴史的事実)
歴史書「保暦間記」には以下の記述が残されている。
平氏との戦いに勝利した後、都に戻った源氏の武士たちが、皇居の内侍所に入った時、そこにあった「辛櫃」を手にかけた。蓋を取った瞬間、侍たちの両眼と口から鮮血が噴出し云々。その辛櫃こそ、三種の神器が入っていた「神璽」だった。辛櫃の「辛」の意味は、「罪」「苦悶」「苦渋」で、辛を「かのと」と読めば、「十干」でいう「甲乙丙丁・・・・」の8番目で、陰陽五行説によって「庚」と「辛」に五行の「金」を配したものになる。つまり、「金」を「カネ」と読もうと「キン」と読もうと、「辛櫃」は「金櫃」となり、「黄金色の櫃」を表すことになる。
その事から、飛鳥氏は金櫃とはヘブライ人の三種の神器である「十戒石板」、「アロンの杖」「マナの壺」を入れた黄金櫃、つまり「契約の櫃(アーク)」だった可能性が高いと考えている。
鎌倉幕府を討伐しに行った朝廷軍は、三種の神器を入れた神璽を運んだにもかかわらず、草薙剣の可能性がある「アロンの杖」を奪われる憂き目に遭い、そのまま敗退したことになる。この預言は、院政しか敷けない朝廷にはもはや神意に相応しい人材がいなかったことを示している。
(院政の崩壊)
「第一章 五」
(読み下し文)
弟王に譲り無し而るに位に即く。
(現代語訳)
弟王は王位を譲られないまま位に就く。
(現代注釈訳)
土御門天皇を強請して、無理やり順徳天皇に天皇の位を継がせる。「弟王」とは順徳天皇のことで、「無禪」は無理矢理の意味、「即位」とあるので土御門天皇を無理に退位させることを言う。
(歴史的事実)
兄王とは土御門天皇を意味し、弟王は必然的に順徳天皇となる。1210年、後鳥羽上皇は、土御門天皇を位から引きずりおろし自分の子(守成)を順徳天皇として即位させている。1221年、順徳天皇は仲恭天皇に譲位するが、後鳥羽上皇と共に鎌倉討幕を計画したため、咎を受けて佐渡に島流しにされてしまう。順徳天皇は、その後29年あまりを佐渡で過ごした後、寂しくこの世を去るが、日本の歴史上、天皇が配下である武士に島流しにあう出来事は起きたことがなかった。これは神代から古代日本における定めを無視する暴挙とも言え、聖徳太子の死後600年後の朝廷の有様はこのような状況に陥っていた。聖徳太子は、朝廷の3代にわたる「院政」が腐敗政治を産み、武家の台頭を招き寄せて、天皇自ら島流しに遭う時代を先見したことになる。
(天皇の権威の失墜)
「第一章 六」
(読み下し文)
神璽明鏡は武士に依りて再び官闕に入る。
(現代語訳)
神璽と明鏡は武士によって、再び官廷に戻る。
(現代注釈訳)
「承久の変」の後、後堀河天皇が即位する。幕府は、朝廷方の公卿や武士の領地を没収することになる。「神璽」とは皇位の象徴(三種の神器)を示し、金櫃を意味する。「承久の変」の後、高倉天皇の孫である後堀河天皇が、鎌倉幕府に迎えられ、傀儡として即位することを示している。
(歴史的事実)
後堀河天皇は、藤原定家に「新勅撰和歌集」を選集させたことで知られている。鎌倉幕府は、京に与した公卿や武士の所領をすべて没収する。結果、貴族の荘園は、公家没官領三千余か所として武家の手に渡る。
鎌倉幕府はこれらの荘園を幕府勲功の武士たちに新補地頭の称号と共に手渡したため、朝廷の経済力は一挙に疲弊した。一方の鎌倉武士たちは、西国の大部分の荘園を手に入れ、一挙に豊かになっていく。朝廷の経済的疲弊は徳川の世になっても改善されることなく、その後、朝廷は武士に官位を与える権威だけの存在となる。