(12)「未然記」→両義預言・・・壬戌(1922年)~辛丑(2021年)の日本編
「太平記」と「未然記」の預言が、現代の日本にも共通することを確かめる。
「第五百歳の出来事 一」
「父祖先逆積於天際 子孫今逆致呼家亡」
(預言内容→日本編)
戦前・戦中を知る者にとれば一目瞭然である。楠木正成の時代、後醍醐天皇に逆らう逆賊は、武力集団の北条政権だった。それも、祖父・時宗の時代からおかしくなり、父・貞時の時代には狂い始め、息子・高時の頃は、天皇を幽閉し島流しにするほど傲慢な有様になった。
鎌倉幕府は武士が築いた政権であり、武力で築いた鎌倉幕府は父祖・時宗から3代目で崩壊した。
これを20世紀の日本に当てはめた場合、以下のようになる。
明治、大正、昭和の3代にわたり、日本の場合の政策の基本は「富国強兵」だった。それは軍事力が最優先される軍部の時代が続いたことを意味する。
その結果、軍部が圧倒的な力を持ち、いつしか政府を牛耳るほどに膨張し、肥大化したのが戦前・戦中の時代だった。
天皇を現人神に祭り上げ、軍の意向の正当性を維持し、その間に天皇の名で軍事作戦の全てを操る構造を構築したのである。
そして3代目の昭和に入るや、軍は主従関係を逆転させたように、自らの方針を天皇の名で正当化させる術を身につける。軍は天皇を尊敬しても、自分たちの侵略戦争を正当化させるための単なる錦の御旗と考えていた。だからこそ従属していたのである。
極論すれば、天皇を旗頭に過ぎない存在に貶めたのである。「御前会議は確かに行われたが、昭和天皇が記した「独自録」には以下のような言葉が記されている。
「もし私が軍部の意向に逆らった場合、国家は内乱状態に陥り、私の最も信頼する家臣は殺され、私の命まで危うくなり、結果的に終戦の発令もなしえなかったであろう」
事実、天皇が戦争の敗北を認め、連合軍側の「ポツダム宣言」を受け入れた時、皇居を守備していた近衛兵の一団は、機関銃を昭和天皇の御文庫に向けて固定した事実がある。このことは、当時の侍従や侍女の記録から判明している。
これにより、いかに言葉を飾ろうと、軍部(特に陸軍)の正体は国にとっても天皇にとっても逆賊でしかなく、日本の進めべき道を誤らせ、多くの若者を犬死させた張本人となる。
軍は国を守るために国民を総動員したのではなく、他国を侵略するために国民を利用した。最後は女性や子供に竹やりを持たせ、軍を守るための盾にしようとさえした。
同じことは、旧ソ連の侵攻で、満州の入植者を見捨てて逃走した「関東軍」にも言える。当時の日本軍が国民の命を守ることなど、絵に描いた餅に過ぎなかったことがわかる。
戦死した末端の兵士は国を守るために戦ったが、軍の上層部はそうではなかったということである。その獅子身中の虫である賊が、明治、大正、昭和の時代と共に、軍事力だけを肥大化させ、忠孝を誓いながらも、その実態は天皇を自らの支配欲に利用する逆賊と化していたのである。
「第五百歳の出来事 二」
「青魚躍呑四海 赤鳥因没六浪」
(預言内容→日本編)
東の魚で示される極東に浮かぶ日本は、欲望をアジア全土に追い求め、勢力圏を確保するため四方に向けて侵略戦争に打って出る。特にハワイの真珠湾攻撃と同時に遂行された南方侵出は、南方を欧米勢力から解放するというのは大義名分に過ぎず、油田を奪い取ることが目的だった。
軍部が立て続けに行った南方への侵略戦争は、1941年12月の「フィリピン攻略戦」、同「マレー半島奇襲作戦」、1942年2月の蘭印(オランダ領東インド)「スマトラ島攻略戦」と、6つの侵攻作戦で成り立っていた。
南方の国々にとれば、日本軍の侵略は6回の波浪、まさしく「六浪」となり、招かれざる6度の大津波だった。しかし、軍が威張れた時代は、6つの攻略作戦までである。それ以降、無謀な作戦遂行と伸び切った戦線が、自己崩壊への序曲となり、その後は一挙に崩壊へと向かう。
1942年6月の「ミッドウェイ海戦」と、1944年3月の「インパール作戦」の大敗北がそれを物語る。
しかし、軍はそれだけでは飽き足らず、断末魔の中さらなる生贄を求めて突き進む。もし天皇の終戦決断がなければ、軍部は女性や子供もさらに動員し、「一億玉砕火の玉」の大号令と共に、根こそぎ国民すべてを地獄の道連れにするつもりだった。
その意味で軍は、天皇を己の軍事体制下で利用できる駒としか見ておらず、明らかに逆賊であり、聖徳太子の言葉を借りれば、天の賊、神の逆賊だった。
こうして、預言通り極東の偏った武力中心の魚は、四方の海へ飛び出し、南方の国々を6つの大作戦で制覇していったのである。
「第五百歳の出来事 三」
「光沈北水 三十旬日 封南木 六十日」
(預言内容→日本編)
南方を含むアジア全土の解放は看板だけで、軍が掲げる「大東亜共栄圏」は、天皇の名でアジア征服を企てる軍の詭弁に過ぎなかった。
1931年9月、軍部は関東軍に命じ、満州を侵略するための口実として、わざと南満州鉄道を破壊し、それをきっかけに「満州事変」を勃発させた。
翌32年3月、傀儡国家として「満州国」を設立し、同9月に「満州議定書」を取り交わして独立を承認し、清から宣統帝溥儀を執政に迎え、ラストエンペラーを誕生させた。その侵略戦争に要した年数はほぼ1年である。
一方の南方侵略は、1941年12月の「真珠湾攻撃」と共に決行され、マレー半島上陸後、「六十日」である2か月で、シンガポールのイギリス軍を屈服させている。これが南方侵出の大きな足掛かりとなり、以後、一挙に南方の国々は、軍の渦に呑み込まれていく。こうして征服した領土が、日本の断末魔を招く「絶対国防圏」へと変貌して行く。