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聖徳太子の「未来記」開封(11)

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(11)「未然記」と「太平記」の一致

(未然記本文ノ一)

「父祖先逆積於天際 子孫今逆致呼家亡 青魚躍呑四海 赤鳥因没六浪 光沈北水三十旬日 封南木、六十日 山鷲舎馳野鳥 野鳥飛舎呑東魚」(未然記「第八百歳」第137~140章)

 

(読み下し文)

「父祖の先、逆に於天際に積もり 子孫の今、逆に呼家亡を致す 青魚躍て四海を呑む 赤鳥囚われて六浪に没す 光り北水に沈むるに三十旬日 南の木に封ずるに六十日 山鷲捨てる野鳥を馳せ 野鳥飛びて捨てる東の魚を呑む」

 

(現代語訳)

「父祖の頃から天に逆らい、大きく道を外れ始めるだろう。そのため天運も逆作用で積もりはじめ、子孫の行いも今にかけても全く止まらず、それが積もりに積もって、最後は家の滅亡を呼び込むことになる。

青い魚は、国の四方全てを呑み干すだろう。しかし、赤い鳥が現れ、それを倒すことになる。徳の高い者が没落するよう、六波羅探題は、そこをめがけて攻め込むことになるだろう。

光を成す者は、水を隔てた北の地の沈むだろう。その期間は、約30旬日(約1年)となろう。南に生える木は敵を封じるために戦い、その期間は約60日にも及ぶことになる。山鷲は一計を計り、野鳥と野鳥を飛来させるだろう。そして、彼らは東の大魚を呑み干すことになる。」

 

(現代語注釈)

 始祖・北条時政が、伊豆で魚鱗3枚を授かったことから、「魚」は北条氏を表すことになる。陰陽道で「青」は青龍で東を象徴する。龍は水に潜み鱗があるため魚を比喩にしている。

 このことから、今日の東にある鎌倉幕府が、「四方」である日本全国を支配する様子を示し、「未然記」の「青魚躍呑四海」と「太平記」の「東魚来呑四海」が一致する。

 一方、「赤」は朱雀で南を指す。だから鳥が比喩される。南は、南朝を起こす後醍醐天皇を示し、京都の南の楠木軍をも意味している。「鳥」は天に通じる存在で、一字だけなら天子(天皇)の象徴となる。

 野鳥や山鷲になると、意味は天子ではなく支配者や国を表し、一字で示す鳥は高貴な後醍醐天皇となる。

 「六浪」は、六波羅探題のことで、1330年(元徳2年)10月、後醍醐天皇は笠置山に住むようになり、そこをめがけて六波羅軍が攻め込む事件が起きる。さらに六波羅は鴨川を挟んで東にあった。

 「光」とは後醍醐天皇のことで、「沈」は権威を奪われる日没を意味する。「北水」は島に流されることで、隠岐は山陰道の北にあり、水によって隔てられることから、島流しの意味となる。事実、1332年(正慶元年)3月、後醍醐天皇は隠岐島に島流しにされている。「三十旬」は本来なら36旬だが、古代中国の古い1年は360日単位なので、大数にして30旬となる。

 これは聖徳太子の頃でないと数えない計算方法で、実際、翌2月、後醍醐天皇は隠岐を密かに脱出して伯耆に逃れている。

 京の「南」に住むのは楠木正成で、末尾に「六十日」とあるように、正成は翌年の正月から60日間、鎌倉幕府の大軍から、赤坂・千早城をわずかの手勢だけで必死に守り抜き、翌3月の鎌倉幕府滅亡のきっかけを作る。

 「南木」は「楠」で、楠木正成がこれを見た時、自分のことと分かったに違いない。さらに、正成の意味も忠臣・忠聖を表している。

 こうして「未然記」の「光沈北水」と「太平記」の「日没西天」が一致する。

 「山鷲」は山の字の暗示で、当時の比叡山の座主だった尊雲を指し、「野鳥」は上野の人なので新田義貞を指している。

 新田義貞が鎌倉幕府を攻め落とし、「野鳥野鳥」と二羽あるように、もう一羽の「野鳥」の足利尊氏が六波羅を打ち倒すと預言している。

 その月の間に、東の北条氏は亡び、「未然記」の「野鳥飛今呑東魚」と「太平記」の「西鳥来食東魚」が一致する。

 鎌倉幕府が高時の父祖(先祖)、時政の時代から逆賊になっていたことを読み取ることは天皇側の人間なら一目瞭然だった。

 時政の息子の高時を見れば、時政以上に不忠者であり、聖帝・後醍醐天皇を幽閉することまで平然と行うようになったことは、まさに現在進行形の事件だった。

 それは楠木正成が四天王寺で「未然記」を読む、ほとんど寸前に起きた事件だった。

 しかし、北条高時の悪行ぶりは、天に逆らう逆賊の行いで、北条家は滅亡すると預言されているように、やがて鎌倉幕府は滅亡してしまうのである。

 おそらく楠木正成は、ここで新田義貞が鎌倉幕府を崩壊させることを知ったに違いない。

(未然記本文ノ二)

「忠聖身伏刃 侫賊自振鋒 天分南北帰乱 上立北天従下」(未然記「第八百歳」第146~147章)

 

(読み下し文)

「忠聖身を刃に伏し 侫族自ら鋒を振う 天南北に分て乱に帰し 上北天に立て下に従う」

 

(現代語訳)

「忠誠なる武将は、あえて策を用いないため、戦の中で刃に散ることになるだろう。一方の賊は、悪徳であるが、天皇は権威をなくすため、自分の所に武士たちを多く集めることになる。天下は南北に分断されるようになり、世の中は大きに乱れることになる。しかし、やがて北は策謀により天下を取り、南を下の置くようになるだろう。」

 

(現代語注釈)

 延元元年(1336年)5月、忠誠なる楠木正成は、湊川において戦死するとある。「賊」とは裏切り者の代名詞で、最初、六波羅探題をだまし討ちにして北条氏を裏切り、次に後醍醐天皇を裏切った足利尊氏のことを指す。

 楠木正成が少数の手勢のみで、九州から大軍を率いて戻った足利勢に立ち向かった謎も、この預言を見ていたならば納得がいく。正成は、最後まで天皇に忠義を尽くして死ぬ気だったのである。

 こうして「未然記」の「侫賊自振鋒」と「太平記」の「如瀰猴者掠天下」は一致する。

 「未然記」は賊が権力を振るうとし、「太平記」は猿のような者が天下を掠め取るとして同じ意味を指す。

 その後、後醍醐天皇は吉野に入り南朝を打ち立てている。一方の、尊氏は、持明院を即位させ、光厳天皇と名乗らせ、北朝を打ち立てたため、二朝は互いに争うことになった。

 光厳天皇は京に入るが、何事も足利尊氏の命令下にあった。やがて足利義満による南北朝合一が行われ、後醍醐天皇亡き南朝側は、足利氏の支配する北朝側に吸収されてしまう。

 こうして、「未然記」の「上立北天従下」と「太平記」の「大凶変帰一元」が一致する。このように、文字や表現の違いはあっても、「未然記と「太平記」の預言は見事に符合するのである。


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