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聖徳太子の「未来記」開封(6)

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(6)「未然記」のプロフィール

 「未然記」はいつ頃世の中に登場したのだろうか?

 延宝7年(1678年)、館林にある広済寺の高僧だった潮音が、「未然記」を含む「先代旧事本記大成経」を世に送り出してからである。

 潮音は上野国(群馬県)で観音信仰で名を馳せた黄檗宗の高僧だった。ある日、伊勢神宮の別宮だった伊雑宮で祠官をしていた永野采女が、宝物庫から「先代旧事本紀」より詳細な「先代旧事本紀大成経」を発見する。別名を「延宝本」と言い、72巻に及ぶ壮大な巻物である。

 潮音は、それまでの「先代旧事本紀」が、「先代旧事本紀大成経」のダイジェストに過ぎないとし、その中に聖徳太子の預言書「未然記」が69巻目として含まれていたことを発見する。

 潮音は、「先代旧事本紀大成経」の中の神典「神代本紀」を含む40巻分を世に出し、延宝年間(1673~81年)に順次刊行していった。

 「序伝」によると、聖徳太子は「先代旧事本紀大成経」の神代における大方を編述したが、完成をみることなく逝去したという。そこで秦河勝と中臣(藤原)鎌足が中心となり、自分たちが覚え知った太子の業績や言葉を付け加えたという。

 この、「先代旧事本紀大成経」が世に出ると、2年後の1680年には、早くも大弾圧が伊勢神宮の神職だった龍野熈近を中心に勃発する。

 天和2年(1682年)、幕府は「先代旧事本紀大成経」を没収し、偽書として焼去したばかりか、版元の戸嶋惣兵衛まで捕らえられてしまう。その時の将軍が、悪名高く犬公方と嫌われた徳川綱吉である。

 綱吉は、柳沢吉保にたぶらかされ、道楽三昧に明け暮れた挙句、粗悪な貨幣を鋳造させ、幕府を財政危機に直面させた将軍だった。

 しかし、享保年間に入り、吉宗が将軍になると、「先代旧事本紀大成経」を含めた「未然記」を調査させることになる。

 「未然記」を写本させた家光の頃は、「先代旧事本紀大成経」どころか、「未然記」そのものが世に出ていなかった。

 国立国会図書館に秘蔵されていた「未然記」の写本2巻本は、幕府が当時最高の学者を集めて解読が行われていたことを示している。

 「未然記」は、巻物を写本しただけの「未来記」とは違い、各章ごとに歴史解釈と分析が付されているのである。その解釈は歴史的事実を伴い明確で、私的に誤りを見出すことができない。ただし、江戸時代から見て過去に起きた出来事のみの正確な分析結果ということである。だから、江戸時代以降の未来の分析は含まれていない。(「未然記」は歴史の繰り返しを基本構造にしている。)

 具体的な「未然記」の形態を見てみる。

 上巻の表紙に「未然本紀註・一名千歳本紀・写本・乾」、下巻の表紙に「未然本紀註・一名千歳本紀・写本・坤」とあり、これが写本であることを表示してある。

 また、国会図書館のラベルが貼ってあり、分類は「東京図書館・和書門・国史類・一函・一〇架・三〇號・二冊」で、上下巻とも同様である。

 表紙の裏は白紙で、本文は3ページ目から始まる。これは下巻も同じである。本文最終ページの末尾に、各巻の「黒附」の数が打たれている。今でいう最終ページ数のことだが、上巻は「黒附五十八」、下巻は「黒附四十五」とあり、上巻の方がページが多い。黒附とある以上、当時のページ数の数え方は今とは違い、片ページであれ、左右見開きであれ、ページを開ければすべて一頁になっていた。

 今なら、見開きで2ページの扱いだが、江戸時代を含む昔の日本はそうではなかった。よって、上巻の和紙枚数は、表と裏表紙袋綴じで計2枚、本文58枚袋綴じの総計60枚となる。

 一方の下巻も、表と裏表紙袋綴じで計2枚、本文45枚袋綴じの総計47枚となる。よって、上巻本文ページ数は、今の数え方なら116ページとなり、表紙の裏表文4ページを加えた総数120ページとなる。また、下巻本文ページ数は90ページとなり、表紙の裏表文4ページを加えると総数94ページとなる。

 「未然記」はどのような経緯を経て国家管理に下に置かれたのだろうか?

 それは、「未来記」同様、本文ページにその経緯を記す印が打たれてあるので判明する。「未然記」上下巻の本文最初の上段に、明治時代以降の政府機関の印が打たれている。その印は「考古課古書課」、「群馬懸官立古学図書館」、「東京図書館蔵」とあり、官の管理下に置かれてきた推移がそのまま経歴となって残されている。

 ではなぜ、徳川家の秘蔵本が群馬県にあったかというと、その付近は赤城山を含めて徳川家直轄の天領だったからである。天領とは朝廷直轄の領地を指すが、朝廷から預かる形で実質支配していた。なぜなら、群馬県は昔から佐渡金山と江戸幕府を結ぶ要だったからである。そのため、徳川幕府が滅亡した後、赤城山に埋蔵金伝説が残ることになった。更に栃木県に、家康を祭る「日光東照宮」が置かれているが、その付近一帯に徳川家関連の所領が点在していたからである。

 「未然記」はそういう経路を経て国の管理下に置かれた書物だった。その出所は確かなものである。


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